独立独歩。私は私。誰かに頼るつもりナッシング。それで良し。
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国とは何か?
その事について私なりの説明をします。

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皆が当たり前に所属している国と言う”法人”について説明してみます。

国は”法人”です。カンパニーと言うのが国の別名で、プレジデントが社長と大統領の両方の意味を持っている事はわかってる人はわかってるでしょう。
法律の規定でも地方公共団体は法人となっています。国家そのものも同様です。

その事がどうもわかってない人が多い。
「国と言うのは権力を持った悪い組織」と思ってる人まで居る始末です・・・・。
そして、国に所属していない人は何と呼ばれるか?”難民”です。
国に対していらいらしたり、不満を持ってる人は特に日本人に多いようです。
日本人なのが嫌なら、日本国籍を離脱して難民になれば良いのです。

国が何をもたらしてくれるのか?
近代的な世界の大多数の国では憲法の保護下に置かれます。
時々、軍事力や治安の能力が足りない為に憲法の規定のとおりに国民が保護されない国もあります。
難民なんかは、基本的に国連以外は面倒を見てくれない存在です。
国連は決議で難民虐殺を非難したりしますが、基本的に難民を殺しても罪になりません。
なぜかと言うと、殺した者達に対して訴えを起こす事ができないからです。

難民には裁判を受ける権利も、裁判を提起する権利もありません。
裁判に関する権利は、どこかの国に属した国民にしか存在しません。
裁判を受ける、裁判を起こす、不当な虐待に対して抵抗する権利は、実は人類固有の権利ですらないのです。


こんな事すら知らない人達が実に日本人には多いのです。
難民は基本的に殺され損です。
国連がどんな決議を起こしても、難民を殺した罪で裁かれ罰を受けた国なんかありません。
罰を受けた様に印象を受けるのは、日本の新聞がさも難民を殺す事が根本的に悪い事みたいに書き立てるからです。
実際には、国連がどんな主義主張を振りかざし、非難を繰り返したとしても、国連単体では難民の権利救済を行えないのです。
裁判ごっこでみんなで非難して正義を実行した様に振舞っているだけです。自慰行為と言っても良い。

この事だけでも理解できるでしょうけど、国と言う意識を持たない人は、国がどんな事をしてくれるありがたい存在かわかっていない人だと言う事です。
難民に対して、「日本人は国家意識を持たない」とか言ったら、多分難民で苦労した人は一生日本人に対して憎しみを抱く事でしょう。
あまりの持ち過ぎている者と、持たざる者との差に打ちのめされる事でしょう。

三輪のレッドアラートを読んでいる人達は、私が非常に頑固な護憲派であり、人の権利に対して著しく強い関心を抱き、人の権利に対する侵害を嫌い抜いている事は先刻承知でしょう。
(わからない人も居るでしょうけど、私はそんな輩は知性ある人間として認めません。つまり、人間として認定していません。地獄に落ちれば良い物体として認識しています。)

しかし、私は憲法に対して「基本的人権を個別法で守ろうとしていた”大日本国憲法”よりマシな紙切れの上の文字」程度の認識しかしていません。
ともかく、戦前の日本では「政府に楯突くなんて許さん」と言う感じで、国が軍事基地や空港、工場等を作ろうとしたら、そこで住民の反対があっても無視してやってしまうような国でしたからね。
まあ、それを知った上で、まともな憲法になったら国をおちょくるやり口で地主になって不要なまでの駄々を成田で捏ねてる人達も駄目な人だと思いますが・・・・。

国の憲法が未整備だった時代は終わったのだから、それを確認したら法を信頼し、法の行使を監視し、自分達は訴訟とかに関わらないのが正しい人間だと私は思っています。
訴訟が好きな人とは、一言で言って人格破綻者です。アメリカを見ればよろしい。
法律があっても、弁護士に散々おちょくられて、当事者にお任せと言いながら、キチガイじみた判例を積み重ねて国民が不安と苦しみでバタバタ精神病院に入るか通うかしないといけなくなってる国でしょう?

政府も国民もろくであしだから精神が病むんです。それを良しとするからアメリカ精神病院になってしまった。
法律がどんなものかを知るのは必要な事ですが、最も大事なのはその法律が何を守っているのかを知る事です。
テサロニケみたいに「俺が信じられるのは日本国憲法だけだ!」とかほざく破綻者の惨めな事。

憲法に自分の無力感を転嫁して、フェティシズムに陥ってるだけでしょうにあのゴミは・・・。
私は憲法が守っているものを重視します。だから、憲法が守らないと宣言しているものがあるなら、それは欠陥憲法だと思います。
憲法第9条では国民を守れない。そうわかっているなら、憲法第9条は廃棄すべきだとも思います。

国民を守らない、国民を守る自衛隊を守らない、国の構成要素である「領土、国民、主権」を守らないと規定する憲法の条文は不要です。

「そんな事をしたら日本がまた侵略国家になってしまう!ギャー、ワー、グヲー!」とか発作的にほえてしまう方々も多いと思いますが、現に竹島は韓国に侵略されています。
既に憲法第9条では国の主権が守れない事は朝鮮戦争の前から証明されているのです。
明らかな事実を目前にして、その事実を認めないのは真っ当な人間の言葉ではありえません。

その他には?
もちろん、国と言うものに対してはいろんな意味があります。
私が重視するとても大きな役目は「国は先祖の価値観を運ぶ船」であると言う事です。

私達は、人間と言う存在は「価値観を受け継ぐ存在」であり、「知恵と言う力を受け継ぐ存在」なのです。
明日私が死んだとしても、私の遺した言葉は誰かに受け継がれます。
私と一緒に時を過ごした人は私の事を忘れません。
どんな風にでも記憶の片隅に記憶は残ります。私から受けた影響によって少し、ほんの少しだけ行動や思考の変化が生じます。
その人達が死んだとしても、その人達は私から受け継いだ価値観の一部を誰かに伝えます。自分では意識せずにね・・・・。その誰かもまた他の誰かに。
人は死に絶えない限り、誰かにその影響を伝え合う存在です。
だからこそ、人は人であるだけで素晴らしいのです。

国は人と言う存在よりももっと大きな価値観を運ぶ”何か”です。
私達が”神”と呼ぶ存在、実際は”上”であり”先祖”と言う事ですが・・・・。
それらは”示す申す”と書きますね。”何等かの価値観を体現した人の事”です。

一神教のGODではない。皇室と言う、国の大きさの家の家長、私達の父の父はそう言う存在なのです。


近代の特徴をなすイデオロギーとしての個人主義 - 22で

こちらのエントリーで

それぞれが自分の利益のことだけ「純粋に」考えて、最大限に努力すれば、
神の手が世の中をうまく調整してくれて、みんなが欲望を際限なく追求できる幸福な社会が出来上がる。
そういわれたら、そうなのかなと思う人も少なくないのではないでしょうか。

この考え方が自由主義というものです。新自由主義でも同じです。

自分の欲望だけを純粋に追い求めて、他人のことは絶対に省みないという固い決意のことを、

個人主義と呼びます。

他人のことなんか考えたこともないし考えたくもない人間が、
自分の行為を正当化するための美名が個人主義だということもできますし、
うっかり他人のことを振り返りそうになる弱い自分に鞭を打つ行為もまた個人主義です。

他人の日々の小さな苦しみなんかにかかずらわっていては、
万人の幸福を約束する神の国に近づけないから、
個人主義者は他人を決して見ようとはしません。

神様の方だけをじっとみつめるという強固なイデオロギーを個人主義といいます。

個人主義がキリスト教から生まれたということは、欧米では広く知られたことです。
また個人主義が、近代の特徴をなすイデオロギーであることにも、異論を唱える人はありません。

個人主義は、わたしからすればあまりにもグロテスクなイデオロギーですが、

キリスト教を否定できるようにならない限りは、
個人主義=近代へ向かう傾向は止めることができないと思います。

幸いにも、キリスト教は、日本では広まったためしがありません。
アジアの国々でも仏教の方がさかんな国の方が多いです。
フランスでも一般にはもう熱心なカトリック信仰はありません。

近代は乗り越えられます。
論理的にいっても、これを乗り越えないことには、人類は滅亡するしかありませんから。



国民戦線遊撃隊:柳生大佐のblog

基本的にリバタリアンで米共和党的保守主義。小さな政府で自己責任。努力する者が報われるのは資本主義のみである!社会主義は怠け者の天国だ。 郵政利権・道路利権・農協利権など官僚既得権益には大反対!小泉改革支持!構造改革・公務員改革で強い日本を!

これが個人主義の極北のブログです。
完全に精神がいかれていますが、個人主義を極限まで突き詰めれば、人はここまで狂った獣になれるのです。

このリバタリアンとか言う事については、今日の次のエントリーで述べます。

日本国憲法は条文を普通に読めば理解できますが、個人主義を突き詰めた憲法です。
「家」と言う社会の根本から人々を「自由」にする憲法です。
条文を読めば理解できます。できない人は国語を勉強しましょう。
国語は価値観の伝承の為の最低限の条件です。
人は話の中で出てくる当たり障りの無い言葉ではなく、沈思黙考と共に生じる真面目でもしかすると自分と他人の価値観を揺すぶる”衝撃的な事実”を含む知恵に接しなければなりません。
そうしないと価値観の本当の意味が理解できません。
笑いや楽しみを与えてくれるだけのTVが人格形成に全く役に立たない理由はそう言う理由です。

感受性を刺激してくれる未知の知恵や、修辞、知らなかった事実。
三輪のレッドアラート同様、感受性に直撃する”痛い目”も時には必要です。
それから逃げれば他人に操られるしかない、弱い弱い自分のままです。

それらから西洋の人達は逃げているんです。答えを絶対に出さない神様との擬似対話。
それに逃げ込めば他人は何も口出しできない・・・・。

ふふ・・・。乾いた世界だな。子供のお遊戯みたいな世界だ。
他人に苦痛を転嫁して、自分の苦痛から逃げればこんな衰退した世界になるんだな。
まあ、クリスチャンの素晴らしい人を何人も知っている私としては、キリスト教と言う世界観は合成の誤謬を生む、どこかが間違った世界観なのだと。

「本当は神様なんか居ない」
個人主義の根本には、多分この考えが横たわっているのでしょう。
「自分の嘘は他人にばれない。神様以外には自分の嘘は暴けない」
キリスト教と自称する者達の心の奥には、多分この考えが横たわっている。
そうでなかったら、本当に神様の恵みを信じる人達の作る世界がこんなに酷薄で残忍な理由が説明できなくなってしまう。

日本では、神仏の権威と同等の神格を持った存在としての皇室がありました。
もちろん、皇室も人間の集団で、特に女性の持統天皇みたいに、自身をアマテラスと呼ばせ、先祖の徳のあり方を捻じ曲げた人も居る。(「高天原廣野姫天皇」と言う贈名を見れば良い、”この女”は自分こそ作り物の神話の作り主が自分だと白状している・・・最低だ)

けれど、基本的に「皇室は信仰の中心であり、世俗の権威から担がれない限りは身を引いていた」と言う歴史的な事実もある。
天皇が政治に執拗に絡んだのは持統天皇の後の数代限りで、その後は摂政に任せきりで、それ以前は豪族との合議制だった。
現在の皇室は、がんじがらめの典範を除けば、以前の役割に・・・まあ近い形に落ち着いている。

ああ、何書いてるんだろう・・・・。ともかく、日本人には先祖からの価値観を受け継ぐ事を正しいと表現する手本があった。
姓を持たず、誰の家の先祖とも言わず、「THE 家長」と呼べる信頼できる対話相手が居た。
その人達は、戦争の前に世界でも最大の富豪になり、その力を戦争で失った。
惨めなものだ・・・・・。そんな力など持たなくても良かったのに。
西洋的な価値観を正しいと思って、禁を破った結果がこれだ・・・・。
巻き込まれた人達は300万人以上になった。皇室は反省すべきだな・・・・。いろんな意味で。
特に、もう一度西洋的な価値観を持った天皇が誕生したら・・・・日本は終わってしまうかも知れない。

日本人は明治以前に何を価値観の基礎として生きて来たのだろう?
明治以降、どれだけ価値観が変わってしまったのだろう?
そして、昭和になって、戦争に負けてどんな価値観を身に着けたのだろう?

その事を総括すべきだろう。別に戦前の皇国に戻りましょうと言う事じゃない。
覇権を争わず、自分達の国だけで自立自活する為の価値観は何であるかと言う事だ。

その探求はロマンではなく、それは現実的なアプローチを取っていかなければならない。
別にそれを探求したからと言って、日本は以前の皇国には戻る事はないだろう。
その様な有り様こそが日本にとっての異型であったのは明白だろうから。
日本人は、平安時代の前に「葬儀その他の様式を統一し、価値観を共有する事で国を一つにしよう」と考えた節がある。
前方後円墳が平安時代の前から日本全国に広まり、突如その建設が無くなったのは、価値観統一の為の実験の結果だろう。
まつろわなかった出雲は、だからこそ消された。神話にそこらが少しだけ語られている。
出雲には出雲の正義があった事も語られているが、その後の出雲は近代になっても放置された場所になっている。何故なんだろう?

日本人は正しい過去を発掘しなければならないと思う。
私達は同じ家に生まれた兄弟だ・・・。考えも主義も違い、それぞれの環境も違う。
けど、兄弟だ・・・。そんな思いが昔の日本人にはあったのではないか?
だから、その為に皇室には姓がないのだろう。私は子供の頃からそう思っていた。
何故そう思ったのかはわからない。けど、そう思った。今もそう思っている。
私はいつか、それを証明する文献を探してみたいと思っている。

私は世界が一つの国になって、世界共和国になったら良い・・・・。
なんてほんの少しも思わない!
世界中にもっとたくさんの国があり、それぞれの先祖の価値観や歴史を大事に保存し、守り、先祖がどんな人だったのかを知り、それを敬う社会が世界にたくさんあれば良いと思っている。

人は人それぞれ、民族の歴史、民族の記憶、民族の誇りをそれぞれに携えれば良い。
その為の器としての国は解体してはならない、忘れ去ってはならない。
合理化でアメリカの州の一つとするために、憲法まで改ざんして日本を改革しようとした竹中や小泉のような連中は悪魔と言われてしかるべき存在である。
しかし、あのような輩どもが生まれ育ったと言う事それ自体が、戦後の日本は間違った国だったと総括できる証拠の一つと言えるだろう。

あれは保守のふりをしていたが、保守ではなかった。これも次のエントリーで。
ふう・・・言いたい事の何分の一も言えやしない。
言葉、記述する言語ってのは不便なもんだ。

中途半端ですけど、このエントリーはこれで終わります。
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家や故郷
今回のエントリで思うことがありましたので、コメント致します。

三輪様は国家や民族の価値や歴史、まとまりについて書かれましたが、「故郷」という概念や「家族」の概念についてはどうなりますでしょうか?

正直、今の自分には「国家のために」という意識が薄いです。国が大事なのはなんとなくはわかっているような気がする、けど実感できない。そんな感じです。
それよりも家族や故郷(生まれた地方)、郷土愛の方が強いし、またわかりやすいと思っています。

昔は情報の伝達が困難でしたし、また国家という概念も近世ヨーロッパで生まれたので、日本人は国家よりも家族や村の仲間との共生、という信念が昔から強いと思いますがどうでしょうか?

2009/11/17(火) 03:11 | URL | なすび #ZkP7pAEU[ 編集]
>なすびさん
国が無ければ大変です。
貴方の大事な人達が明日殺害されても、裁判を行うのは国です。

国が無ければ殺され損です。
昔は国が小さかったのですよ。
ただし、現在の国家ですが、正常な政治家が少ない。非常に少ない。
それで日本国にアパシーが蔓延していると言う事でしょう。

故郷については、私は文化的な郷愁を感じる場所。自分の根がある場所だと思っています。
家族についても同じです。自分の根がある場所です。

そう言うものを大事に思う事が大事だと思いますが、それだけを大事に思っていると、国が自分達に危害を加えている姿を見過ごして、その結果災難に近い形で不可避かつ甚大な被害を蒙ってしまう事にもなりかねません。

あまり小さな単位の事だけでよしとしない方が身の為ですし、あなたの様な人が1000万人ほども居れば、悪政を行う政治業者は笑いが止まらない事になるでしょう。
自分自身が有権者であり、国家権力と言う暴力装置の安全装置であると言う自覚を忘れないで下さい。

「国のために何かをする」と言うのは、手綱を握って離さないと言う行為も含んでいるのです。
20年以上にわかった自民党の悪政は、その行為を忘れてしまった人達のせいだと言っても過言ではありません。
2009/11/23(月) 08:28 | URL | 三輪耀山 #X.Av9vec[ 編集]
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