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世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL203   江田島孔明

前回は、ランドパワーにとって、最大の問題が「後継問題」である事を論じた。今回は、自民党の最大の問題が同じような後継問題であることを論じたい。

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自民党を理解する上で、その歴史を見ていくと、「政局」を築いたのは、田中角栄を除いては、岸信介、三木武吉、後藤田正晴の三氏しかいない。

まず、岸と三木については、結党すなわち「保守合同」がそもそも、両者の談合によってなされた。

1955年4月13日、三木は保守政党の結集を呼びかけ、そのために鳩山内閣が障害となるなら鳩山内閣総辞職も辞さないと発表する。
三木は、日本社会党統一に危機を抱いていた。

また、この時期、医者から癌のため余命もって3年を宣告されていた。
三木は党内合意を取り付けに動くと同時、に自由党に工作を開始する。

同年5月15日、三木は自由党総務会長の大野伴睦と会談を持つ。
大野は戦前以来の鳩山側近であったが、嘗ては鳩山とは敵対関係であった三木が鳩山の一番の側近に納まったことで、居場所を失い、鳩山の許を去ったと言う事情があり、三木が最も恨まれていた相手の一人であった。

だが、三木は浪花節と愛国の情をもって、巧みに大野をかき口説き、大野の賛成を得る。
岸・三木・石井・大野四者会談が持たれ公式に自由・民主両党間で保守合同に向けて動き出す。
これに対して民主党内では三木武夫、松村謙三らが保守二党論をもって反撃する。

議論がまとまらない中、鳩山首相は涙ながらに内閣総辞職を口走り、これに慌てた一同は保守合同に賛成することになる。
しかし、最後に総裁に誰がつくかをめぐり自由・民主両党は議論が平行線をたどった。
結果、総裁を棚上げし、総裁代行委員を設置、結党後、公選により総裁を選出することが決定された。こうして、困難と思われた保守合同が成し遂げられ、日本初の統一保守党・自由民主党が結成された。

三木は、鳩山、緒方、大野とともに総裁代行委員に就任した(5ヵ月後、鳩山が自民党総裁に就任)。この際、三木は「(総理は)鳩山の後は緒方、岸、池田とここまでは予想できる」と論評した一方、保守合同した自民党については党内に複雑な対立関係が存在したために「10年持てば」とも評していた(総理の流れは急死した緒方の代わりに石橋湛山になったこと以外は的中させている。
また自民党崩壊論については、衆議院第一党としての位置は50年後の現在も崩されていない)。

そして、後藤田を私が政局のキーパーソンに挙げるのは、言う前も無い「金丸逮捕」に踏み切ったからだ。
ここから、経世会分裂、自民党の「野党転落」という、現在に連なる、大きな政局が生まれた。

<参考>
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage138.htm

平成5年3月6日、東京地検は、自民党元副総裁の金丸信と秘書の生原正久を、所得税法違反(脱税)の容疑で逮捕した。
金丸は、前年の「佐川急便事件」で、巨額の金を受け取っていながら申告していなかったことで略式起訴されていた。
しかし世論は、略式起訴で片付けてしまった検察に強い不満をもっていた。

そのような状況の中、金丸が、日本債券信用銀行の割引金融債「ワリシン」を大量に購入しているとの情報を得た。
そこで、東京地検が、金丸の事務所・自宅を家宅捜索した。
この結果、金丸の金庫から何とワリシンなど70億円の有価証券類がでてきた。

このワリシンは3000万円以下であれば無記名で購入が可能で、脱税する側は都合が良かった。
更に、金丸は名義を分散して複数の銀行口座を使うなど悪質であった。

-ゼネコンとの癒着-

政界のドン金丸は、ゼネコンからの資金がベースになっていた。正規の政治献金以外に、巨額の盆暮れの付け届けや闇献金でワリシンを購入して、所得申告をせず金庫に貯め込んでいた。

捜査は、このゼネコンも対象となった。東京地検・特捜部は、金丸の献金元であるゼネコン20社の家宅捜索を実施。
そこで押収した各社の帳簿から賄賂授受の実体が明らかにされる。

6月末、宮城県・仙台市の石井亨市長が、市の公共工事の発注に伴う賄賂1億円をハザマ、西松建設、三井建設、清水建設の4社から受け取っていた。
更に茨城県、埼玉県などの市長、知事なとが逮捕される。

ゼネコンも上記4社以外に大成建設や鹿島などの会長・社長等も逮捕され、24人が贈賄容疑で逮捕、起訴された。

金丸の追徴税額は、43億円を超えると見られていたが、平成8年3月26日、山梨県の自宅で脳梗塞によって死去した為、公訴棄却となった。

このように考えると、現在のの政治家には、このような意味で「政局」を作りうる、「大物」が不在で、それが自民党の限界を生んでいる点、が理解されるであろう。

何故なら、自民党の最大の問題とは、「世代交代により二世が増え、優秀な政治家がいなくなった」事につきる。
そして、優秀な政治家とは「政局をつくり、政局に勝利し、国会での多数派を押さえる」事ができる人間をいう。

与野党を見渡しても、このような政治家は小沢一郎しかいないのが現状だ。

国会での多数派をとるためには、保守改憲路線や構造改革路線だけでは、決して不可能であり、「左派との連携」や「地方の支持」も絶対に必要である。
そして、自民党の結党とは、そのような諸々の勢力の統合がなったということであり、そのバランスの上に、日本を支配していた。

これは、実は、戦前から続く「満州ランドパワー人脈」を抜きにしては語れない。

前提として、自民党がシーパワーであったのは、終戦直後から、占領を回復する、いわゆる「吉田時代」でしかない。
その後、児玉や笹川といった「巣鴨大学同窓生」を岸が使いこなした事をみてもわかるが、自民党とは、「米ソ冷戦を背景として、対米協力を条件に釈放された満州ランドパワーによる連立政権」という本質を備えていた。

追放解除や逆コースの意味はそこにある。アメリカはランドパワーをパートナー認定したのだ。

自民党結党の資金の出ところがそれを如実に証明している。

児玉が上海から持ち帰った資金(現在の時価にして3750億円)を海軍に返還しようとしたというが、この資金は、調べられれば、汚れた金であることがわかってしまう。
それで、戦時犯罪の疑いをかけられたくなかった海軍は、児玉に処分を依頼。
旧海軍の資産のためアメリカも没収せずに、宙に浮いた。

児玉は、巣鴨拘置所に共にいた有力右翼でヤクザの親分辻嘉六に勧められて、この資金の一部を鳩山ブランドの自由党の結党資金として提供した。

 <参考>


------------引用開始--------------
http://stocksaurus.hp.infoseek.co.jp/kodamayosio.html

 児玉は、その後、津久井龍雄主宰の「急進愛国党」に移籍。天皇直訴事件、井上準之助蔵相脅迫事件、内大臣・宮内大臣暗殺未遂事件等で起訴され、各実刑で懲役に服し、昭和12年に出所。

 外務省情報部長河相達夫の知遇を得て、中国各地を視察。昭和14年、河相の斡旋で外務省情報部嘱託となり、上海を拠点に情報活動に従事する。

 開戦直前の昭和16年11月、国粋党総裁笹川良一の仲介で海軍航空本部嘱託となり、上海に軍需物資調達のための組織「児玉機関」を作る。後に児玉の片腕となる岡村吾一も児玉機関の幹部の一人であった。

 終戦後、東久迩内閣の参与となったが、内閣総辞職で解任。昭和21年1月、戦争協力容疑で巣鴨プリズンに収容される。

 この巣鴨には、 笹川良一、岸信介もいた。昭和23年12月、釈放となる。

 児玉機関は物資の調達だけを請け負い、軍事行動には関与しなかったというのが釈放の理由だったようだ。この収容期間中に通訳として知り合ったのが、後にロッキード社の日本向け広報業務を請け負い、児玉とロッキード社との仲介役を果たすことになるジャパン・パブリック・リレーションズ社の社長で、日系二世の福田太郎だ。

 児玉は日本へ引き上げてくる際に、膨大な額の宝石類を横領したのではないかと言われているが、真偽は決着がついていない。

 ロッキード事件で、同社から巨額の対日工作資金を受け取ったとして、脱税と外国為替管理法違反で起訴された。
------------引用終了--------------


そうであれば、自民党政権とは、煎じ詰めて言えば、「アメリカとランドパワーの談合」によって成立した組織といえる。
これが、満州国で実験された、「国家社会主義の焼き直し」としての、高度成長期の日本の本質だ。

このランドパワー人脈は、朴正煕の韓国とも結び、朝鮮半島へも続いていた。

自民党の本質をこのように理解すると、色々なことがわかる。
つまり、自民党とは、その本質は「ランドパワー」であるということ。
 
そして、ランドパワーの宿命として、内部統制の難しさを常に抱え、それは、戦前の「満州人脈」が機能することで、初めて達成できるものであるということ。

最後には、そのような人脈の相続が岸信介以降の世代において、結局はできなかったため、崩壊するという、まさに、勝頼が武田を滅ぼしたのと同じ運命を辿ると言うことがわかる。

この事を、自民党の歴史を見ることで、検証したい。
まず、佐藤栄作は岸信介のバージョンダウンであり、岸のグリップも効いていた。
つまり、この頃までは、上述のランドパワー人脈が機能していたといえる。

佐藤内閣は、1972年5月15日の沖縄返還を実現すると退陣した。
その後を受け継いだのが、田中内閣である。
首相となった「田中角栄」は、小学校しかでていないのに首相にまで上り詰めた人間として、学歴社会である日本の庶民から「今太閤」(現代の豊臣秀吉)とよばれて人気があった。

田中内閣の進めた政策は、「日中国交回復」と「日本列島改造」であった。
佐藤内閣の末、1972年2月、アメリカのニクソン大統領は突然、訪中すると、「米中共同声明」を発表し、米中国交回復を行った。

この突然のアメリカの行いに世界は仰天した。
それまで、中国(中華人民共和国)をソ連とならんで敵視してきたアメリカの世界政策の大きな転換であったからである。

世界中の国がびっくりした中で、もっともショックを受けたのが日本であった。
日本はアメリカの世界戦略の中で、安保条約のもとに、ソ連、中国に対する軍事的な防波堤の役割を担わされてきたからである。

また、中国敵視政策の中で、台湾(中華民国)政府を中国の正式政権として付き合ってきたのである。
ニクソン訪中は最大の同盟国であったはずの日本にはまったくの相談も連絡もなく行われたことに、当時の佐藤首相は「裏切られた」と語った。
 
アメリカにとっては、所詮、日本は「大国」ではなく、従属国でしかなかったのである。
アメリカ政府のこの歴史的転換は、中国とソ連との対立が激しくなったことが原因である。

社会主義の路線対立から、中国はソ連批判を強め、国境に於いては武力衝突にまで発展していた。

アメリカは、この機会を利用して東側陣営の分裂を図るとともに、泥沼化していたベトナム戦争解決のために、ベトナムの後方にいた中国の力を借りようとしたのである。

まさに、アジアの地政学的パワーバランスが一夜に変化し、自民党政権は、それを読みきれなかった。
これは、例えば、戦前の独ソ不可侵条約締結時の平沼内閣の対応を見ても分かるが、日本の伝統的な、オオボケぶりを発揮したといえようか。

この時点で、アメリカはアジアのパートナーを北京にし、日本に対しては、経済的なライバルとみなして、攻勢に出たのだ。
これが、ニクソンショックから、プラザ合意さらには、内需拡大から土地バブル、そして80年代末のバブル崩壊へと繋がる。

つまり、ベトナム戦争による疲弊から、冷戦時の対日保護育成政策、すなわち、日本をジュニアパートナーとする戦略を放棄し、北京をパートナーとしたわけだ。
自民党政権存立の基盤がここに、失われたといっていい。

むしろ、冷戦状態を背景に、妥協してきた日本のランドパワー人脈を、この機会に整理しようとした。
これがロッキード事件の本質だ。

ここから、自民党は、田中政権の成立と退陣以降、「戦国時代」に入る。
つまり、満州人脈に属さない層の台頭すなわち下克上と、内部抗争の時代だ。

福田と田中の総裁選から40日抗争にいたる闘争の本質は、岸信介が築き上げた国家社会主義ランドパワー政党自民党の、「満州人脈の跡目争い」だ。

結果として、満州人脈の相続は「誰もできなかった」。
福田は所詮官僚であり、田中は満州人脈を動かせるほどの見識もキャリアもなかった。
結果として、日中国交回復という形で、ランドパワーに絡めとられてしまった。
統一教会や勝共連合等も同様に。

言い換えれば、天才岸信介個人の芸術作品である「自民党」を、第三者が相続する事など、所詮は不可能だったのだ。

武田信玄と山本勘介が作り上げた「武田家」の相続が、結局はできなかったように。

これは、戦前の満州で、陸軍や官界を押さえ、国家社会主義を実践し、その後、敗戦や巣鴨プリズンでの生死の境をさまようとい、極限の経験をした人間でないと、到達できない高みがあり、二世や三世では、そもそも、不可能ということだ。

戦略家は一代限り。芸術家の相続が不可能なのと同じように、戦略家の相続も不可能だ。

アメリカは、かって、ベトナムから手を引くため北京と手を組んだように、イラク戦争の泥沼から抜け出すため、平壌とも手を組もうとしている。

地政学的パワーバランスの変化は、株や為替が大きく動く、つまり国際金融資本にとって、「勝負どころ」だ。
これは、欧州の三十年戦争やナポレオン戦争、二度の世界大戦、ベトナム戦争を通じて見られる近代の特徴だ。本は、またもや、国際金融資本の餌食になるのか?

同じような国家の転換期、混乱期は、かっては、戦国時代や幕末において、みられた。
その際、日本を救ったのは正統政府である室町幕府や江戸幕府ではなかった。織田徳川や薩長といった、新興勢力が、旧勢力を打倒し、新政権を立ち上げたのだ。
自民党も同じ運命を辿るであろう。

そして、現在の織田徳川や薩長はネットに集う、我々だ。

     以上
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コメント
この記事へのコメント

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL204

                           
江田島孔明

今回は、イスラエルをめぐる情勢の推移を検討したい。

下記記事に見られるように、イスラエルの核保有の事実が、徐々に明らかになりつつある。米国大統領選挙においても、ヒラリーの敗退が決まりつつある。(ヒラリークリントンにはイスラエルロビーが全力を傾注して支援、
選挙資金もイスラエルロビー(代表的なもので約40)の合計が、寄付者の2位の33000万ドルに達している、2000年のNY州の上院議員選挙の際にヒラリーはイスラエルサイドに転向した、そのために当選を果たした、ブッシュよりもその面ではよりイスラエルサイドに密着的である、たびたびイスラエルを訪問、
「イラクがイスラエルに攻め込めば私は銃を取って、イスラエルの塹壕で死を賭して戦う」まで発言している、
2000年の上院選挙の際に、アラブ人女性の会に出席、講演したことをイスラエルロビーに追求された、それが転向のキッカケとなった、)追い詰められ、孤立したイスラエルは和平を模索するしかなくなっている状況だ。

http://mainichi.jp/select/world/news/20080527ddm002030071000c.html
カーター元米大統領:イスラエルが核兵器150個保有と言明
 【エルサレム前田英司】英紙タイムズ(電子版)によると、カーター元米大統領は25日、訪問先の英ウェールズ地方で、イスラエルが150個の核兵器を保有していると言明した。イスラエルの核開発は「公然の秘密」とされ、100個以上の核兵器を保有しているともいわれるが、イスラエル自身は肯定も否定もしておらず、真相は不明だ。イスラエルと同盟関係にある米国の有力者が同国の核保有の実態に言及するのは異例。
毎日新聞 2008年5月27日 東京朝刊
http://sankei.jp.msn.com/world/america/080526/amr0805262247008-n1.htm
イスラエルとシリア間接和平交渉を発表 焦点はゴラン高原の返還 (1/2ページ)
2008.5.26 22:45
このニュースのトピックス:国連
 【カイロ=村上大介】ブッシュ米政権がパレスチナ・イスラエル和平交渉を推進しようとする中、シリアとイスラエルの和平交渉が2000年以来、8年ぶりに再開された。トルコが仲介する間接交渉の形をとり、来月初めにも第2回交渉が行われるという。焦点は、1967年の第3次中東戦争でイスラエルが占領した戦略的要衝、ゴラン高原の返還問題で、イスラエルのオルメルト首相は「困難な譲歩を行う用意がある」と表明した。米国が孤立させようとしているシリアとの交渉がなぜいま、急浮上したのか。
 交渉が明らかになったのは21日。イスラエル政府が間接交渉開始を発表し、シリア側もただちにこれを確認する声明を出し、両国が事前に調整していたことをうかがわせた。交渉は19~21日の3日間、イスタンブールで開かれ、両国の代表は顔を合わせることなく、トルコ当局者が交渉の枠組みなどをめぐる双方の立場のすりあわせを行った。交渉は今後、定期的に開かれ、軌道に乗れば「直接交渉」への格上げも視野に入れているという。
 両国の和平交渉は91年のマドリード中東和平会議で始まり、具体的な実を結んでいないものの、90年代を通じて水面下の交渉は断続的に続き、ゴラン返還と平和条約締結をめぐる争点はかなり絞り込まれている。
 シリアは第3次中東戦争での占領地域の全面返還を要求し、これを拒むイスラエルとの隔たりは大きいようにみえる。だが、イスラエルは90年代前半の故ラビン首相時代から、同国北部ガリラヤ湖東岸から数キロの地点で崖のように切り立つゴラン高原の「高原部」からの撤退には原則的に応じる構えをみせていた。
通常の国ならば、このような緊張緩和状況は喜ぶべき事だろう。しかし、私は、イスラエルに限っては、「マサダ・コンプレックス」ともいうべき複雑な歴史的、民族的背景がある。確かにイスラエルは国際的に孤立している。しかし、この国は建国以来、一度たりとも、孤立を恐れたことはない。むしろ、運命的に孤立を選択しているというか、ユダヤ人はもともと孤立した民であるという深い自覚めいたものを、もっているようにみえる。

イスラエルの死海のほとりに、標高400メートルほどの丘がある。
紀元66年、ローマ帝国からの解放を目指すユダヤ人が、パレスチナで「ユダヤの反乱」という独立戦争を起こした。戦争はユダヤの敗北に終わったが、最後まで戦う決意の人々967人が、女子どもを含めて、この丘の上に砦を築き立てこもった。砦はヘブライ語で「マサダ」というところから、この丘は「マサダ」と呼ばれている。
マサダにこもった人々は、俘虜の身になるより、全員自決の道を選んだ。
これを契機に、ユダヤ民族の「ディアスポラ(離散)」が始まった。それから約1900年を経て、ユダヤ人はパレスチナの地にイスラエルを建国したが、この時の合い言葉は「マサダは2度と陥落しない」だったのだ。
第4次中東戦争のころ、ユダヤ人の「マサダ・コンプレックス」という言葉ができた。四面を敵意に囲まれた中に国を作ったユダヤ人は、絶対に陥落しない「マサダ」を構築するという決意に凝り固まったのだ。強迫観念といったほうがいいかもしれない。それがマサダ・コンプレックスだ。

自国の存在を「マサダ」と意識するイスラエル人が、攻撃は最善の自衛手段と考えているとしても、不思議ではない。相手の戦闘能力を無力化し、戦意を喪失させるまで安心できないというのが、イスラエルの安全保障観だ。二度と再び、自決の道を選ばない。とすれば、周囲の敵意を消し去るしかないのだ。
イスラエルが考えているのは、ヒスボラの戦闘意志を完全に萎えさせ、その後ろにいるイランとシリアに、イスラエルはアンタッチャブルであることを思いしらせることなのだ。
イスラエルは、米国以外のどこも信用していない。その米国でも、反イスラエル感情の高まりから、ヒラリー敗北後は、表立ったイスラエル支援は難しくなるだろう。つまり、イスラエルの右派にとって、いよい、追い詰められ、先制攻撃にでるしか道がなくなりつつあるのだ。まさに、大坂夏の陣の真田丸のようなものだ。ヒラリー・クリントンは、一貫してイラク戦争を支持し、イランに対しても
「核関連施設への爆撃を容認する」と断言しており、イスラエル・ロビーはヒラリーを援護しているそうだ。民主党の支持基盤のひとつであるリベラル系反戦団体はとっくにヒラリーにそっぽを向いているという。

ヒラリーの外交政策は、米中関係が最重要とし、日米同盟への言及
がないことが問題となっていたが、中東地域での米国の関わりについ
ては、「まずその中心にイスラエルの安全と自由の確保を据えねばなら
ない」とし「50年以上も続くイスラエルとの関係を揺るがせてはならない」と述べている。ヒラリーは筋金入りのイスラエル支持者なのだそうだ。

イスラエルは湾岸戦争にしろ、イラク戦争にしろ、米国に戦争をさせて自国を守る戦略をとってきたのは事実であり、今後の動きが大変気になるところだ。
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/world/m20080514013.html?C=S

イスラエル建国60周年 あきらめと孤立感
2008年5月14日(水)08:15

 【カイロ=村上大介】イスラエルの独立宣言とアラブ側の宣戦布告による第1次中東戦争勃発(ぼっぱつ)から14日で60年を迎える。大量のパレスチナ難民発生と4回にわたる中東戦争を経て、イスラエル・エジプト平和条約(1979年)、パレスチナ解放機構(PLO)とのオスロ合意(93年)と和平への模索は続いたものの、21世紀になってもイスラエルに「平和」は訪れていない。むしろ最近、イスラエル社会を覆うのは、共存へのあきらめと内向きな孤立感だ。
 建国の父、故ダビド・ベングリオンが国連パレスチナ分割決議に基づき独立を宣言したのは48年5月14日。エジプト、ヨルダンなどの周辺国は直ちに攻撃を始めたが、アラブ側は「戦勝後」の領土分配の思惑などで足並みが乱れて苦戦、イスラエルは停戦協定で、分割決議に示されたより多くの領土を獲得する結果となった。戦乱により、パレスチナ問題の根幹をなすパレスチナ難民が生じた。
 当時のイスラエルには、「アラブの敵意」に囲まれ、国家存続が危ういとの危機感があった。しかし、67年の第3次中東戦争で歴史上のユダヤ、イスラエル王国があったヨルダン川西岸など含むエレツ・イスラエル(イスラエルの土地)を占領し、社会に宗教的な雰囲気が広がり始めた。
 いわく、「神がユダヤ人に約束した土地を回復した勝利は奇跡のたまものだ」
 欧州でのユダヤ人差別への解答としてユダヤ人国家創設を提唱したテオドール・ヘルツルがスイスで第1回シオニスト会議を開いたのが1897年。当初は社会主義的理念と結びつき、私有財産を否定するキブツ運動として具体化したが、「約束の地」を手にしたイスラエルでは、信仰と結びついた宗教シオニズムの力が増した。
 70年代から活発化した西岸やガザへのユダヤ人入植地建設がその例だ。ユダヤ人を占領地に大量に居住させ、返還を実質的に不可能にするとの思惑もあった。左派・労働党の故ラビン首相が結んだオスロ合意はこうした流れを止め、イスラエル・パレスチナ2国家共存を実現しようとする最後の試みだった。
 遅れる一方のオスロ合意履行に対するパレスチナの不満爆発と政治的揺さぶりとして始まった第2次インティファーダ(住民蜂起)は、イスラエル社会のパレスチナ不信を増幅させ、国民の約半数を占めていたはずの「平和共存派」を社会の片隅に追いやった。
 代わって台頭してきたのが、西岸での分離壁建設に代表される「一方的切り離し論」だ。パレスチナ人の生活をずたずたに切り裂く壁は、国境線を有利に画定させる布石とみられ、パレスチナ側はアパルトヘイト(人種隔離政策)だと反発する。建国後もイスラエル国内に留まったアラブ系市民の強制移住などを唱え、本来なら国際的に非難されるべきロシア系政治家が大手を振って入閣するまでに社会は変質した。
 建国と国家存続の原動力となってきたシオニズム。イスラエルは次の60年で、ユダヤ人だけでなく世界に意義を示せる国として輝きをもてるのか。ユダヤ人が平和を手にする鍵もそこにある気がしてならない。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%83%80%E8%A6%81%E5%A1%9E
マサダ要塞、マサダ(ヘブライ語:מצדה‎、要塞の意)は、イスラエル東部、死海西岸近くにあるユダヤ属州時代の要塞の遺跡。ユダヤ戦争におけるユダヤ人の集団自決で知られる。 2001年に世界文化遺産に登録された。
目次
[非表示]
• 1 歴史
• 2 現在
• 3 登録基準
• 4 脚注
• 5 関連項目

[編集] 歴史
東経35度21分13秒北緯31度18分55秒に位置する標高約400メートルの岩山にある。
紀元前120年頃に要塞が建設され、後にヘロデ大王が離宮兼要塞として改修し、難攻不落と言われた。
66年にローマとの戦争を始め(ユダヤ戦争)、70年のティトゥス率いるローマ軍によってエルサレムが陥落した後、熱心党員を中心としたユダヤ人967人がエルアザル・ベン・ヤイルに率いられてマサダ要塞に立てこもり、ローマ軍15000人がこれを包囲した。ユダヤ人たちは2年近く抵抗したが、73年についにローマ軍によって攻め落とされた。陥落直前にユダヤ人たちは、投降してローマの奴隷となるよりは死をと、2人の女と5人の子供を残して全員が集団自決したという。これによってユダヤ戦争は完全に終結した。 [1]
73年のローマ軍による破壊後は長い間その所在が分からなくなっていたが、1838年にドイツ人研究者によって発見された。
[編集] 現在
現在、同地はイスラエル国内でエルサレムに次ぐ人気の観光地となっており、観光用のロープウェーが整備されている。その歴史的経緯から現在でもなお多くのユダヤ人にとって特別な思い入れのある場所であり、ユダヤ人全滅の悲劇を再び繰り返してはならないという決意から、イスラエル国防軍の入隊式がマサダ頂上で行われ、国家への忠誠を誓う。

                                      以上
2008/06/01(日) 22:45 | URL | 孔明 #-[ 編集]
次のコラムは何時?
掲載が遅れ入るので噂があります。
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1197023681/

ご病気でしょうか?
2008/06/08(日) 12:09 | URL | かるぼなーら #XdBsppmM[ 編集]
>孔明様
すみませんね、毎度エントリーあげるのが遅れて。
もうちょっと時間が何とかならないものかなと思うのですが・・・。

>かるぼなーらさん
掲載が遅れているのは、仕事が忙しいからです。
ただそれだけ。
2008/06/08(日) 12:47 | URL | 三輪耀山 #X.Av9vec[ 編集]
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