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世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL198   江田島孔明

今回は、地政学的視点から産業構造を考えてみたい。まず、地政学には「科学技術の発展を考える」という原則がある。これは、科学技術の発展により、地政学戦略は変化するという事だ。

例えば、第一次大戦では、欧州における鉄道の発達による大規模動員が可能となったことが戦争の大規模、長期化につながったし、第二次大戦では、航空機の発達による、制空権の取得が戦争の帰趨を決めた。

ここに、日本における航空機産業の地政学的背景として、歴史を見てみたい。

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<出展WIKPEDIA>
日本の航空機産業(にっぽんのこうくうきさんぎょう)では、日本における航空機産業の衰勢について解説する。
日本での航空産業の黎明は大正時代に始まる。欧米に比べ日本は航空機作りに遅れをとっていたが、航空の有用性が第一次世界大戦で示されたことから、陸軍が注目し、国内の造船メーカーや内燃機器メーカーに、欧米航空機の機体やエンジンの生産を依頼するようになった。
しかし、これらの軍も企業も製造ライセンスについての知識が不足しており、海外メーカーとの間で度々問題となった。
日本のメーカーでは中島飛行機(現在の富士重工業)と三菱造船(後に三菱航空機へ分社、新三菱重工を経て現在は三菱重工業)が、軍の後押しもあり当初より熱心に取り組んだ。
初期は日本人に設計者がおらず、イギリス人やフランス人の設計者・技師を招いて製作していた。後に川崎航空機(現在の川崎重工業)などが参入、軍需増大によって昭和初期には10社以上の航空メーカーが登場しているが、軍との密接な関係により、欧米に比べて民間機の分野への進出は鈍かった。
陸軍・海軍とも、当初はこれら国内企業に競争試作を行わせ、要求に合う機体を採用していた(陸海の対立もあった)が、それぞれのメーカーの得意分野がはっきりしてくると、指名によって試作させるようになった。
このころになると、ドイツとの関係強化から、ドイツ製の機体を参考にする機会が増え、また国内技術の著しい成長によって、英仏の影響はほとんど無くなった。
日中戦争やノモンハン事件によって航空の重要性を再認識した軍は、難しい要求をメーカーに突きつけ、各社は苦労が絶えなかったが、結果として各社の技術力向上へ繋がり、零式艦上戦闘機に代表される優秀な航空機を輩出していく。
第二次世界大戦の勃発によって、日本の航空技術は最高潮に達したが、戦局悪化に伴う資源・燃料の不足、度重なる軍からの要求変更、徴兵による工員の不足、工場への攻撃などにより、産業は急速に消耗し、次々に新型機を繰り出す連合軍に対して苦戦を強いられた。
その中でも、試作を含めたいくつかの機体は、後に傑作と呼ばれるほどであった。一方、特攻専用もしくは特攻のほか用途のない機体も製作された。
[編集] 戦後
敗戦と同時に連合軍が各地に駐留すると、日本は航空機の製作はおろか、研究や運行までを禁じられ、占領7年を通して各社は完全に解体され、他業種への転換を図られた。
失職した技術者や技師は自動車や鉄道などへと流出したが、彼等はその業界の成長を支えていくこととなる。
朝鮮戦争の際、アメリカ軍が戦闘機の修理や部品供給を日本に発注したことから、航空産業は復活を迎える。
しかし、占領終結によって航空は解禁されるものの、その間は、ジェット機などの新エンジン機、大型の旅客機、超音速機など新たな時代への転換期であり、日本の航空機産業が受けた技術的な打撃は非常に大きかった。
完全に出遅れた日本企業は、防衛庁向けにアメリカ製航空機のライセンス生産を手がけることで、失われた基礎技術を得ることとなった。完全に復活が出来たのは、占領中に他業種で生き残りを図った三菱、富士、川崎といった大企業であった。
こうして再取得した技術と戦前の技術を合わせ、T-1やYS-11といった航空機が生まれたが、主に価格の面で大量生産する欧米機に比べて不利であり、いずれも少量の生産で終わった。
三菱や富士は独自にビジネス機分野へ参入したものの、販売不振などで撤退した。
このため、各社は専ら安定した自衛隊関連の需要か、通商産業省が斡旋するボーイング機への開発協力へ甘んじる事となった。また各社は占領以来複合業種の企業であり、航空機開発にかかる予算の暴騰もあり、他業種を守る為、あるいは好調な他業種に依存するようになり、国内での機体開発は躊躇するようになった。
[編集] 現在
冷戦終結による世界的な軍縮を受け、防衛庁向けの需要は今後伸びないであろうことから、各社は積極的に民需拡大へ動いている。
特にリージョナルジェットと呼ばれる小型近距離旅客機は急速に需要を伸ばしており、各社は海外企業からの開発分担率を引き上げるよう努力するとともに、独自開発の計画を持っている。
三菱のMRJや、本田技研工業のホンダジェットは民間機参入への起爆剤となるか、期待されている。
防衛関連でも、大型機のC-X・P-X同時開発やステルス機ATD-X開発など、大型プロジェクトが推し進められており、日本の航空産業は新たな展開を迎えている。
このように、地政学戦略の観点から、オセロの4角を押さえるように、アメリカは戦後の日本に対し、航空機産業を規制した。
戦後日本の国策である「吉田ドクトリン」は、この戦略を受け入れた。

 
 問題は、イラク戦争を契機としてアメリカの国力が相対的に低下しつつあり、「外交安保の対米依存」が客観的に不可能になりつつある点だ。吉田ドクトリンそのものの前提が崩れているのだ。
 吉田ドクトリンは軽武装で、経済中心だが、この路線を維持するのに憲法9条が役立ったといえる。これを、日本の産業構造の観点からみると、戦前の軍事産業中心から、民需産業中心への大転換だ。
 言い方を変えると、戦後の改革で陸海軍や財閥をはじめとする軍事産業が解体され、「軍事技術の民生利用」が図られたということだ。新幹線の開発に海軍の技術者が参加した例はその典型だろう。

<参考>
Japan On the Globe(359) 国際派日本人養成講座   人物探訪:島秀雄 ~ 新幹線の生みの親

 島は戦前から、いずれ高速で走る電車列車の時代が来ると読んでいた。昭和20年12月、敗戦からわずか4ヶ月目、海軍航空技術廠の技師だった松平精を鉄道技術研究所に迎えて、こう依頼している。
 『松平さん。私は、将来、日本に電車形式の高速長距離列車を走らせたいと思います。しかし、いまの電車は振動もひどいし、音もうるさい。とても長時間、お客様に乗っていただく車両とは言い難い。ぜひ、あなたの航空技術の知識、研究を生かして、この振動問題を解決していただきたい。』[2, p89]
 松平精は、零戦をはじめ海軍航空機の振動問題を解析するスペシャリストで、35歳の若さですでにこの分野の権威であった。 松平は、敗戦の焦土の中でも、将来の日本の鉄道について斬新で具体的なビジョンを語る人物がいることに感銘を受けた。
 終戦直後、松平のような軍の技術者が大挙して鉄道に移り、鉄道研究所だけでも職員が500人から1500人に増えた。これらの、かつて戦闘機を開発した技術者たちが、戦後復興の執念をもって鉄道技術開発に取り組んだのである。
 「優れた高速車両を作り出すためには、まず車両の振動理論を完成させることが先決」という島の方針に従って、理論好きの飛行機屋たちと、経験豊かな鉄道屋たちが白熱の議論を展開しながら、車両の振動理論を完成させていった。当時、欧米でも、高速電車列車という発想はなく、振動理論も手つかずであった。この振動理論の完成によって、日本の車両技術は欧米に大きく水をあけた。戦後の新幹線には、戦前の零戦などの技術伝統が継承されていたのである。
 この流れは、プレーステーションが軍事シミュレーションに転用されかねないとして規制対象になったほどだし、ホンダのアシモは最先端の軍事歩兵に転用できる。
 日本の防衛費そのものは5兆円前後で、GDPの1%程度だが、防衛産業自体の裾野は限られているが、上記のような歴史的背景により日本の企業には、防衛産業に転換できる技術やラインが多数ある。
 官需主導の軍事大国が旧ソ連のようないびつな産業構造をとり、結局はつぶれたことを見ても、日本の産業構造はバランスが取れ、かつ膨大な裾野分野を生んだ点で、ある意味、理想的だろう。
 逆に言えば、プレーステーションやアシモを国家予算の投入なしに、民間が商用を前提として開発することは、国際的には異常なことであり信じがたい現象だ。プレーステーションは軍事シミュレータ並みの能力があるが、その目的で開発されたわけではなく、子供のおもちゃなのだ。

 <参考>
世界各国の軍事力あるいは軍事傾斜度を示すため、軍事力人数(Total armed forces)と軍事支出対GDP比
 米国の軍事支出対GDP比は3.4%と大きい。経済規模(GDP)自体の大きさを考えると米国が世界最大の軍事大国である点はいうまでもない。
 軍事支出対GDP比が5%以上の高い国としては、エチオピア、エリトリアといったアフリカの国、及びシリア、サウジアラビア、イスラエル、ヨルダンといった中近東の諸国であり、紛争を抱えている地域の状況をうかがうことができる。
 日本は24万人で、グラフの諸国の第21位となっている。軍事支出対GDP比は1.0%と世界の中でも最も低いレベルである。
 言い方を変えると、戦後の日本は憲法9条のもと、防衛産業は抑制的にして、民需中心にしてきたのだが、結果として「民需の中に膨大な軍事技術転用可能な技術が蓄積」されたということだ。
 これは、何を意味するのだろうか。これは、国家が関与しない分野で、膨大な軍事産業が樹立されたという、史上、おそらく初めてのケースだろう。言い方を変えると、官民一体となって、真に防衛産業を育成し、軍事大国を目指すという国家意思を決定をすれば、分野によってはアメリカを上回る軍事技術大国になるということだ。
 よく言われていることだが、日本はF15を三菱がライセンス生産しているが、アメリカ製よりはるかに性能がよいという。
 F2攻撃機のレーダー性能はこれもアメリカ製を大きく上回るという。
 通常動力の潜水艦も純日本製だが、これも、アメリカ製の性能を上回る。
 また、横須賀ドックの整備能力は世界一だ。(三輪の独り言:空母ミッドウェイがあれほどまでに長寿だったのは、横須賀で整備していたからでしょうね。戦後生まれのフォレスタル級空母は、全て戦争中に完成したミッドウェイより早く退役してしまいました。)

 問題は、自動車や家電で、日本の製品がアメリカ製を駆逐したのと同じ事が軍事分野で起きた場合、日米関係は決定的に悪化するため、日本は軍事大国を目指せないということだ。
 FSX計画をアメリカが潰した意味もそこにある。アメリカは日本を恐れている。

 ここまでの状況を要約すると、戦後日本は冷戦構造を利用して、外交、安保をアメリカに依存し、経済中心の産業立国を目指し成功した。軍事面では憲法9条の制定が、結果として軍事技術の民生分野への展開から、民需主導の産業立国となり、知らないうちに防衛産業の裾野は大きく民需の分野に広まった。GDP費1%程度でもアメリカにつぐ軍事力を有しており、防衛費を国際標準のGDP比3%にし、官民が力を合わせて軍事大国を目指せば大幅な軍拡は可能だが、それは、製造業において主要産業がほとんど破綻し、軍事産業しか残ってい無いアメリカの戦略と衝突することになる。
 つまり、保守派が言うような、憲法9条を改正すれば、軍事的にフリーハンドが得られるというような単純な話ではないのだ。
 この状況は、歴史を例に取れば、ロンドン海軍軍縮条締結時に似ている。1930年(昭和5)のロンドン会議において締結された条約で,ワシントン条約の改訂と補助艦保有比率の決定の二部から成る。
 【条約の内容】まず,アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本の五国間で,ワシントン条約の改訂について次の諸点が決められた。(1)主力艦代換の期間を1931年から1936年まで延期する。(2)主力艦数をアメリカ・イギリス15隻,日本9隻とする。(3)1万t 以下の航空母艦も制限t 数内に含ませる。
 次に,補助艦保有制限については,フランス・イタリアが参加を拒んだため,アメリカ・イギリス・日本の間で,比率10:10:7が決められた。日本としては,(1)補助艦総t 数対アメリカ7割,(2)8インチ砲巡洋艦対アメリカ7割,(3)潜水艦絶対保有量7万8,000t の三大原則を主張したが,(1)しか認められず,この条約を1935年までの暫定的なものとしてようやく承諾したのである。
 【日本国内の反応】ロンドン会議に出席した日本全権は若槻礼次郎・財部彪・松平恒雄であり,彼らは要求にほぼ近い成果を得た。ところがこの条約に対して軍部と右翼は強い不満をもち,政府と枢密院との論議も3カ月もかかってようやく枢密院で批准された。これを機に軍部と右翼が結合して,条約推進派の政治家・軍人への攻撃を強め,浜口首相暗殺未遂事件を起こし極端な国家主義的運動が台頭する一因となった。

 重要な点として、この条約の結果、戦艦をはじめとする
主力艦は制限が加えられたが、空母や潜水艦は事実上制限が無くなり、日本は建造途中の戦艦を空母に流用するなどして世界最初の機動部隊を建造した点だ。規制のバイパスが思わぬ効果を生んだのだ。

 要するに、戦後の吉田ドクトリンと憲法9条をロンドン軍縮条約と見なせば、同じように、軍事技術の民生分野への展開から、民需主導の産業立国となり、知らないうちに防衛産業の裾野は大きく民需の分野に広まったことと同じだ。穿った見方をすれば、憲法をバイパスし、アメリカの監視をかわすために、民生の仮面をかぶって軍事技術を開発したともいえる。

 思うに、今後の世界経済を動かすトレンドは「民が官をリード」する事が主流になると考えられる。
 民需のほうが遥かに裾野が広く、雇用創出等の波及効果も大きい。
 旧ソ連や現代のアメリカを見ても、軍需が突出した社会は歪な産業構造となり、結局は破綻する。

 戦車はつくれても、テレビはつくれないというのでは、結局はだめなのだ。
 何故なら、戦車の照準機はデジタルカメラの技術が応用できるし、装甲は、高度の冶金技術が必要で、全て、民生の基盤があって、達成できる。

 つまり、これは、戦後日本の戦略が実は当たったということだ。問題は、日本の民間企業がもってる、様々な技術を地政学的戦略から組み合わせることだ。

 この意思が日本には足りない。

 その「意思」を持っているのは、私がみるところ、米軍だけだ。
 「米軍の意思と日本の民間の技術のコラボ」。
 環太平洋連合の成否はまさに、そこにある。そして、今後の地政学的産業は間違いなく、情報通信とエネルギー業界になる。この分野の覇権を握ることは、第二次大戦における制空権、制海権を握るのと等しい。重要な点として、どちらも、民間が主導権を握っている分野ということだ。

 以上
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コメント
この記事へのコメント
三輪さん

元気そうで安心しました

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL199

                           
江田島孔明

今回は、私が最近購入したプラモデル「伊-400潜」の紹介と妄想を披露したい。

いうまでも無いが、「伊-400潜」は、第二次大戦において、帝国海軍がアメリカ海軍の大動脈である「パナマ運河」攻撃のために開発した当時最大の潜水空母だ。潜水空母「伊400」は、搭載した水上爆撃機による奇襲攻撃を行うというユニークな発想によって作られた大型潜水艦です。当時の他国に於ける代表的潜水艦であるUボートに比べ、全長で約2倍、排水量で4.5倍、水上爆撃機「晴嵐」を有する事による有効攻撃射程距離は数十倍という、並外れたスペックの秘密兵器だった。
 終戦間際にウルシー泊地攻撃の命を受けて行動中に終戦となり、遂に当初の威力を発揮するに至らなかったが、開発途上ではなく将に実戦行動に参加したという完成度の高さ故に、今でも「もしも....」の思いに駆られる人は少なくない。しかも「思い付きの珍兵器」ではない着想の確かさは、その後この艦と同じ発想が原子力戦略ミサイル潜水艦として開花した事でも裏付けられている。戦後、潜水艦については、
  伊13型    伊14号
  伊201型   伊201号
  伊201型   伊203号
  伊400型   伊400号
  伊400型   伊401号

全艦、アメリカが接収した。

これは、アメリカは、潜水艦こそ次世代の有力兵器
であると、すでに察知していた証左であろう。先見の明のあるアメリカは、評判の高かった日本軍の潜水艦を、独占的に研究したかった、いづれ敵となるであろうソビエト等には渡したくなかった、ヒントを与えたくなかったのであろう。

 <諸元>水上排水量:5,223トン 水中水量:6,560トン
       全長:122.0メートル 安全潜航深度:100メートル
       水上速力:18.7ノット 水中速力:6.5ノット
       水雷兵装:53.3サンチ魚雷発射管8門
       火器:14サンチ単装砲1基、25ミリ3連装機銃3基、同単装1基
       搭載機:水上爆撃機「晴嵐」3機

思うに、米海軍が真に脅威を感じたのは、大和や赤城に代表される連合艦隊ではなく、この伊号潜水艦や回天による通商破壊の可能性だろう。潜水艦の大量保有から、Uボートを駆使してドイツが行ったような兵糧攻めを日本海軍が実施していたら、また、戦局は違ったかもしれない。艦隊決戦思想から抜けだせず、潜水艦の有効活用に失敗した帝国海軍だが、虎は死して皮を残すように、アメリカ海軍にその思想が引き継がれ、後に戦略原潜やSLBMといった戦略兵器を生んだ。

 まさに、伊-400こそは、戦後のミサイル原潜の始祖なのだ。
そして、その血脈は米海軍と海上自衛隊ん息づいている。

<参考>
出展WIKIPEDIA
[編集] 概要
潜水空母(せんすいくうぼ)とも俗称される。艦内に攻撃機を搭載、さらに(理論上ではあるが)地球を一周半可能という長大な航続距離を誇る。パナマ運河を搭載機で攻撃するという作戦が考案されたが、本艦が完成したころには、日本海軍は制海権、制空権とも失い壊滅的な状態になっており、すでに時期を逸していた。
第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で最大の大きさであり、全長は米軍のガトー級を37メートル上回る。独創的な構造と3機の特殊攻撃機『晴嵐』を搭載していたことで知られる。その知名度は極めて高く、子供向けの船舶図鑑にも紹介されている。伊号潜水艦。
[編集] 開発の経緯
日本海軍の漸減作戦として「潜水艦による敵艦隊攻撃」というのがあり、その一つに、アメリカ西海岸まで進行してアメリカ艦隊を攻撃可能な航続距離の長い艦(巡用潜水艦伊一型潜水艦など)が構想された。その後、1942年に建造が検討されることになる本艦に「アメリカの要所であるパナマ運河を攻撃するために、攻撃機を搭載可能な艦」というのが盛り込まれることになるが、それが誰によって、いつ発案されたかは不明である(有力な説は山本五十六によるというもの。彼はこれでアメリカ東海岸を攻撃できないかと考えていたとも言われる)。
海軍は、本艦以前にも航空機を搭載可能な潜水艦を建造していたが(伊号第五潜水艦、伊号第一二潜水艦)、これらに搭載する機体は、「零式小型水上偵察機」という、攻撃機として使うことが不可能な機体のため、新たに水上攻撃機晴嵐が開発された。伊四〇〇型はセイル部と一体化した格納塔内に3機搭載した。
昭和17年の改マル5計画で18隻の建造が計画(設計番号S50)されたが、戦局の移行と共に計画は5隻に縮小され、最終的に3隻が完成した。建造計画の縮小を補う為、1隻当たりの搭載機数が3機に増加され、また、建造途中の甲型潜水艦を晴嵐2機搭載可能な潜水空母に改造した(伊一三型潜水艦:伊一三、伊一四)。
[編集] 戦歴
当初パナマ運河の、次に西海岸部の攻撃を検討したが、最終的にウルシー泊地の在泊艦船への攻撃が決定された。作戦参加艦は伊四〇〇・伊四〇一と、潜水空母に改造された伊号第一三潜水艦・伊号第一四潜水艦の計4隻(伊一三・伊一四は、先行偵察用の艦上偵察機彩雲を輸送する任務)。攻撃予定日は8月17日だったというが、直前に電信で作戦中止・停戦命令を受け、内地へ帰投する途中で米軍に発見され、降伏。このとき米軍が撮影した乗組員のカラー映像が残っており、後年日本の報道番組内で公開された。
[編集] 潜水空母の実用性
潜水空母は航空戦艦と並んで架空戦記では定番の秘密兵器であり、軍艦好きにとってはロマンを感じさせるコンセプトの軍艦であるが、その実用性は殆ど無いと言っても過言ではない。
潜水艦の一番の武器は隠密性である。水中に潜って存在が分からない事に最大の意義がある。第二次世界大戦中この特性を生かしたゲリラ戦的な通商破壊こそが、潜水艦の最も活躍した戦術であった事はドイツのUボートの例をみれば明らかである。この為には発見されにくく小回りが利き、量産に適した中型潜水艦を多く揃える事が一番であるが、伊四〇〇型は艦載機を運用する為に大型で構造の複雑な艦であり、発見されやすく量産に不向きなばかりか、艦載機発艦の為には最大の武器である隠密性を放棄して浮上しなければならない。しかも艦載機回収の為に周辺海域に留まり続けなければならない。レーダーの性能が向上した大戦後半の時期に、このような戦術をとれば、たちまち敵に発見されて撃沈されてしまったであろう。
もっとも、パナマやウルシーへの攻撃計画では特攻が前提とされており(晴嵐に大型爆弾を搭載する場合はフロートは装着できず、仮に帰投しても不時着水して乗員のみを回収するしかない)、これならば発進のみで収容の必要は無いが、通常の戦術の常識から大きく逸脱している事は明白である。
日本海軍は潜水艦を艦隊決戦に用いるために多くの航空機搭載潜水艦を整備したが、殆ど有効活用されておらず、そのカタログスペックの割には貧弱な戦果しか挙げられなかった。列強諸国も一度は潜水艦に水上機を搭載しようと試みた事はあるが、大戦に入ると艦載水上機は殆ど使われず、多くの艦艇は航空艤装を撤去して対空砲を強化した。日本海軍は水上機を高度に発展させて艦隊決戦時の数的劣勢を少しでも補おうとしたため水上機搭載潜水艦に固執したが、これは潜水艦の用法を誤らせてしまったと言える。艦隊決戦という一戦場での戦術的な勝利で戦争に勝てるとの、近代戦に対する誤った認識から抜け出せなかった首脳部の責任が大きいが、潜水空母も膨大な手間と資材を使用したにも拘らず戦果を挙げることが出来なかったのは当然と言わざるを得ない。
潜水空母にしても航空戦艦にしても、あるいは潜水艦に大口径砲を搭載したスルクフのような艦にしても、話としては面白く想像力をかき立てるものではある。しかし異なる兵器を繋ぎ合せたかの様なこれらの兵器は、結局のところ実用性や信頼性に欠けるアイデア倒れの兵器であると言える。
本型も、隠密行動と遠距離攻撃手段の複合という構想こそ現在の戦略原潜に通じるものであるが、当時の日本の工業力から考えれば戦力化は夢物語でしかなかった。また、当初計画では18隻という建造数が3隻と減らされたことも、本艦の評価に疑問符をつけられる原因と思われる。搭載機が3機という少数では決定的に打撃力不足であり、また現代の戦略原潜に見られるように(ただし核を搭載し一隻でもそれ自体が決定的打撃力として存在する原潜といささか事情は変わるが)、この手の兵器は数を投入して初めて効果を発揮するからである。
なお、パナマ運河などに対する攻撃が実施されたら、という想定で書かれたフィクションはいくつかある。 檜山良昭/著「パナマ運河を破壊せよ~海底空母・伊四〇〇~」は比較的よくできた作品だが、それでもかなり日本側に甘い設定となっている(往路で敵に発見された伊四〇〇が無事に逃走できた、晴嵐が故障せずに完全作動している、など)。ただし、帰投途中に4隻の潜水艦は全て撃沈されている。
[編集] 同型艦
• 伊号第四〇〇潜水艦(第5231号艦)
1944年(昭和19年)12月30日呉海軍工廠で竣工。連合艦隊第6艦隊第1潜水隊に所属。ウルシー南方で待機中敗戦を迎える。帰投命令を受領し搭載機、魚雷を投棄。8月29日アメリカ駆逐艦ブルーに接収され、8月30日横須賀港に帰港。9月15日除籍。その後、アメリカ本土に回航され技術調査され、ハワイ近海で実艦標的として撃沈処分。艦長は日下敏夫中佐。
• 伊号第四〇一潜水艦(第5232号艦)
1945年(昭和20年)1月8日佐世保海軍工廠で竣工。連合艦隊第6艦隊第1潜水隊に所属。カロリン諸島ポナペ島沖で伊四〇〇と合流できず、そのままウルシー攻撃に向かうが終戦により日本へ帰投。8月29日ヒラム・カスディ中佐の率いるアメリカ軍部隊が接収。31日早朝、座乗して指揮を執っていた第1潜水戦隊司令有泉龍之介少将は艦内で自決した。8月31日横須賀港に帰港、9月15日除籍。アメリカ本土に回航され技術調査され、ハワイ近海で実艦標的として撃沈処分。艦長は南部伸清少佐。2005年3月20日にハワイ大学の研究チームにより海底で発見された。
• 伊号第四〇二潜水艦(第5233号艦)
1945年(昭和20年)7月24日佐世保海軍工廠で竣工。連合艦隊第6艦隊第1潜水隊に所属。8月11日に呉で爆撃をうけ損傷[1]。呉で整備中に敗戦を迎える。11月30日除籍。1946年(昭和21年)4月1日長崎県五島列島北方の東シナ海でアメリカ軍の実艦標的として撃沈処分。艦長は中村乙二(海軍兵学校62期)中佐。
• 伊号第四〇三潜水艦(第5234号艦)
呉海軍工廠で起工直後に空襲により損傷、以後工事中止。戦後解体。
• 伊号第四〇四潜水艦(第5235号艦)
1943年(昭和18年)11月18日呉海軍工廠で起工、翌年7月7日に進水。1945年(昭和20年)8月末竣工予定も95%で工事中止し島影に疎開。7月28日呉軍港空襲により大破、後に自沈処分。1951年12月浮揚、翌年解体。
• 伊号第四〇五潜水艦(第5236号艦)
1943年(昭和18年)9月27日川崎重工業泉州で起工したが直後に建造中止、解体。
• 伊406(第5237号艦)から伊417(第5248号艦)
戦局の悪化から1943年7月に8隻計画中止、残りも10月に計画中止。
[編集] 参考文献
• 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0462-8
• 「近代世界艦船事典」
以上
2008/04/13(日) 23:42 | URL | 孔明 #-[ 編集]
伊-400潜に限らず、日本の
優秀な人材・大陸の利権に詳しい
者達をGHQ及びキャノン機関は
軒並みリクルート
していましたね(協力しなければ
殺すと脅した上でですが)。
伊-400潜では確か細菌兵器を
ばら撒いて米国本土に相当の損害
を与える予定だったが、陛下が
確か裁可しなかったと聞きました。
2008/04/15(火) 00:03 | URL | I-R #-[ 編集]
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