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【第1章】 誰が主権者を吊るせるか? 二重の職人芸 2007年9月6日 木曜日 佐藤 優,伊東 乾

国家とは何か、権力とはどう使うべきものなのか、死刑には何の意味があるのか。
これまで日本では真正面から議論、考察されたことがあまりないテーマについて、現在最もホットな作家である佐藤優氏と伊東乾氏が5時間以上にわたって熱く議論した。
自ら512日間も拘留された経験や地下鉄サリン事件の実行犯を同級生に持つ作家たちだけに、観念論に陥ることなく具体論で喝破していく。迫真の議論をテーマ別にシリーズでお届けする。(司会進行は本誌編集長 川嶋 諭)

余りにも酷いので、ちょっと晒して反論する。

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伊東 佐藤さんが雑誌「創」誌上で「拘置所経験を通じて死刑廃止論者になった」とお書きになっているのを拝見して、ぜひお目にかかってお話をうかがいたいと思いました。私自身は、実は廃止論というより、死刑制度うんぬん以前に、まず現行法の枠組みの中で、いま進行している裁判で何がどこまでできるか、ということの方に、興味を持っているのではあるのですが・・・。

雑誌「創」とは、どうやら社民党系の雑誌らしい。
子供を殺して、死体を食べる事が残酷かどうかは置いておいて、絞首刑は残虐だから反対と言うスタンスらしい。
月刊「創」ブログ: メディア


佐藤 日本の裁判制度ということならば、悲観的にならざるを得ません。私も刑事被告人になるまで分かりませんでしたが、あれは近代的な裁判ではなく、「お白州」です。それに検察官、裁判官の外交に関する知識は、実に頼りなく、公判で外交秘密の漏洩を防ぐために被告人である私が努力するしかない。

 私は長年、外交の世界で情報屋をしてきたので、機密情報を、実は腹にたんまり抱えています。犯罪に該当する行為をした覚えはないから、もちろん無罪を取りたい。しかし、国益を害する内容にまで言及して自らの無罪を立証する気にはなりませんでした。そもそも検察が有罪を立証するのではなく、被告人が無罪を立証するという魔女裁判のようなゲームのルールが適用されるのが現下日本の裁判なのです。

 この体験をするまでは、司法についてそれほど強い問題意識を持っていませんでした。従って、死刑についても、制度としてこれもやむなし、ぐらいの感覚でいたのです。ところが実際に東京拘置所で生活してみて、死刑は絶対に廃止すべきだ、と考えるようになりました。

伊東 クリスチャンの佐藤さんも、以前は死刑存置論者だったわけですね。

佐藤 そうです。キリスト教とは新約聖書と共に旧約聖書も信じているわけですから、旧約で定められた応報刑として死刑はやむを得ない場合があると考えていました。

 ところで、現在、欧州のみならずロシアでも、死刑が廃止されています。死刑廃止は国際的趨勢です。それはこれまでの死刑制度の経験から、このような刑罰はなくした方がいいという経験知の裏づけがあるからです。

 この関連で、イスラエルにとても興味深い例があります。イスラエルに死刑制度は存在しません。唯一の例外が、有名なアイヒマン裁判です。ナチス・ドイツの絶滅強制収容所の責任者だったアイヒマンの処刑が、イスラエルでかつて実行されたただ1つの死刑です。

嘆きの壁って、何なんでしょうか?死刑は駄目でもリンチなら良しと?


 イスラエルで死刑が廃止されているというのは、「死刑囚がかわいそうだ」というような情緒論ではなく、実は国権論から考えてのことなんです。死刑によって法秩序を維持するのは弱い国家だという意識があるからです。アイヒマンの処刑についてもイスラエル国家の弱さを示すものとイスラエルの知識人は認識しています。

じゃあ、戦争によって国家主権を守ろうとする国も弱い国なんでしょう。多分イスラエルは非武装中立の強い国なんでしょうねw


 聖書には「汝、殺すことなかれ」とある。人が人を殺すことはいけないのだから、まして、国家が人を殺すことはいけないという思いが、私も塀の中で強くなったのは確かです。ただし、このような信仰に基づく個人的見解を初めから公共圏の討議に持ってくるのはカテゴリー違いだと思います。私は国家主義者です。従って、国権論の観点から見て、死刑は廃止すべきだと思うようになりました。

つまり、自分が罰を受けたくないと言うエゴイズムと、自分の信仰の短絡から始まった、そんな個人的な「思い」を国家論に摩り替えるようになったと言う事ですね。


伊東 こういう議論は、もっときっちりなされるべきだと本当に思いますね。日本国憲法は全文において高らかに「国民主権」を謳っているけれど、刑法は明治41(1908)年に施行された第9条のまま、刑罰の種類として「死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑」としています。欽定憲法下の刑罰が、国の制度が変わっても温存されたままになっているけれど、その矛盾を明確に指摘する人は、きわめて少ない。でもいったい「主権者を吊るす国家」ってどういうものなんでしょうね?

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第31条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
これらの規定に反する行為=殺人が、他の主権者である日本国国民の権利と自由、そして最も根源的な人権である「生存権」を侵害したが故に罰を受ける事が主権の侵害だとでも思っているのだろうか?
また、ここまで主権者の主権を重く見る者達は、「主権者でない外国人による主権者である日本人の犯罪行為による殺害、拉致と言う憲法に反した誘拐行為」をどう見ているのだろうか?


佐藤 いや、全くそうです。これはまず論理連関の問題です。さらに、実際に塀の中に入ってみると、取り調べの実態や、看守が公務として処刑を幇助させられている実情が分かります。

違う、倫理と言う個人的に大きな差異のある問題ではなく、明白な憲法問題なのである。


佐藤 優(さとう・まさる)氏
 隣人の死刑囚の姿を目の当たりにしたことも、死刑廃止を考えるきっかけになりました。そもそも実際に取り調べを受けてみて、大きな矛盾を感じました。

 我が国の裁判は、(1)犯罪の事実関係の確定、(2)被告人の犯行とされる行為に対する認識、(3)犯罪の事実関係と被告人の認識に対する法律専門家の評価で成り立っています。

 つまり、事実、認識、評価という構成ですね。実は、犯行を行った人間の認識は、密室の中での検察官の取り調べでいかようにも作り上げることができます。それは職人芸と言っていいほど見事なものです。検察官が「上手に」取り調べ、その過程で、元来は被告人が持ってもいない「認識」を引き出し、もっともらしく文書(検察官面前調書)に整える。

この辺は当然具体的に説明すべきではないか?<それは職人芸と言っていいほど見事なものです。
この部分の記述はあまりに扇情的でありながら、具体性が全く無い。


 実際の犯行時と異なる「認識」であるのに、それが認識だ、と法廷で確定され、それに従って裁判が進んでいくケースが圧倒的に多いのです。そういうプロセスによって、犯罪がいかようにも作り出されることになる。これは経験してみないとなかなか分かりません。

じゃあ、経験談をもっと具体的かつ精細に述べるべきだ。
こんな著述ではまったくわからない。


伊東 なんとも恐るべきことだなぁ。

佐藤氏の具体性の全く無い断片的な描写だけで、良く恐るべき云々などと納得できるものだ。


佐藤 検察実務の世界では、何ら恐ろしいことではなく、これが日常です。私の事件に関しても、外務官僚が署名、指印した、実態から乖離したものすごい調書がたくさん出てきたんですね。

 例えば、2000年にイスラエルのテルアビブで行われた国際学会に袴田茂樹・青山学院大学教授や田中明彦・東京大学大学院教授たちを派遣した案件でも、検察は、私が個人的目的のために鈴木宗男さんの政治力を使って違法な資金支出をさせたという筋書きを作ろうとしました。

 そうするとほとんどの外務官僚が検察の筋書きに迎合するのです。「支援委員会から予算を支出することは違法と思っていたが、同意しないと佐藤優の背後には鈴木宗男がいるので、恐かったのです」という調書が次々と作られていくのです。

 その過程で検察に過度の迎合をする人も出てきます。当時、鈴木さんの覚えをめでたくしようと思い、自発的に追従の手紙を書いて持参した人物が、検察に対しては「鈴木に脅されて詫び状を提出した」などという供述をするのです。そして、違法であるという認識を持ちながら、鈴木宗男が恐いので決裁書類にサインしたという調書を作るのです。

 私に言わせれば、違法だと思っている決裁書にサインしたらその瞬間に公務員としての資格を失います。こういう人が現在、外務省で北朝鮮を担当する北東アジア課長を務めているのですから、まともな対北朝鮮外交などできるはずがありません。


 裁判における真実は、客観的な事実とは異なります。検察官面前調書に書かれたことが真実です。私の弁護人の1人は、最近、検察庁を辞めた人でしたが、検察庁では「事実を曲げてでも真実を追究する」「いかにして被疑者を何でも供述する自動販売機にするかが検察官の腕だ」と教えられたそうです。私を取り調べた検事も「フニャフニャの証人を3~4人揃えれば、どんな事件だって作ることができる」と率直に述べていました。

その人自身に暴露させるべきだろう。又聞きでは説得力はない。


 ここから論理的に考えていきましょう。

やはりここまでは論理的ではなかったんですね。(苦笑)


 殺人を犯した場合、「自分はとんでもないことをしたと思った」という人間ほど、つまり罪の意識が強い人ほど、取り調べの過程で検察官に歩み寄ることになります。

確か、死刑の判決文には必ず「罪の意識も反省もなく」と言う文言が入っていますね。歩み寄らない奴の方がより悪質な判定を受けるものですが?


 被疑者は正直に罪を認めているつもりで話す。その過程で、人を殺めた時点で、明確な殺意はなかったにもかかわらず、あったと過剰な認識について供述してしまう。そういう調書ができ上がってしまうと、計画的な殺意を持って人を殺めたという「非常に凶悪」な「認識」が法廷の場で認定されてしまって、死刑が言い渡される。

私の経験では、殺意に近い怒りと共に喧嘩した場合が過去に多々ありましたが”殺人まで至った事は一度もありません”でした。
けど、それは素手の喧嘩だったからですね。これがナイフや拳銃になるとどうでしょうか?
ナイフで人を刺せば死ぬ。それが理解できない人は居ないでしょう。多分、日本人の成人だと99.99999%は理解していると思います。
つまり、ナイフで人を刺せば死ぬと知っていて、その上で殺人を起こしたのだとすれば、ほぼ間違いなく殺意があったと言う事です。
人間には知能がありますし、理性もありますから、悪い事をしている時に、悪い事をしていると言う自覚の無い人は皆無であると思います。
この人は嘘をついています。


 一方、被疑者が徹底的に開き直ると「殺意はなかった」として傷害致死罪で終わる。そういうからくりになっているわけです。

 検察官出身の弁護士から、レイプ事件の調書を作る時は、「オ○○コ」という言葉をいくつ入れるかで評価が決まるという話も聞きました。「そこで彼女とオ○○コをしたいと思い」とか「思わずオ○○コをのぞき込みました」というような作文をたくさんすると迫真性に富む良い調書を取る検察官だと組織内での評価が高くなるということです。笑い話のような世界です。

そりゃそうでしょう。貴方の脳内で作った笑い話なんだから。
そうじゃありませんか?


 いまの司法は、こういう検察官の取り調べの「職人芸」に頼っている。その結果、ほとんど同じような事件でも、結果が天と地ほども違ってしまう。どの人が死刑になって、どの人が死刑にならないかという裁量の幅が大きすぎます。

つまり、人を殺せば即ち死刑、これが一番大事だと言う事ですね。



伊東 乾(いとう・けん)氏
伊東 犯罪を立件しようとすると、まず筋書きを書くのでしょうね。

でしょうね・・ですか?推測ですね。


これは検察に限らずどの役所も同じで、シナリオは書くでしょう。

貴方がそうしていたからですか?


次に、そういう職人芸をもって被告人をハメていくと言うと語弊があるにしても、当てはめてゆくというのはありそうな気がします。

「気がします」と想像でものを言う?


「こういうパターンなら罪状はこう」で、あとは遵法的な手続きをして、こんなふうにすれば被告人は落ちていくと計算して、作文を作っていく。熊崎勝彦なんて人が有名でしたね。彼がいなければ政治家の案件、金丸信も中村喜四郎も立件できなかったなんて読んだことがあります。

検察を陥れて有罪とするために、そう言う筋書きを貴方は脳内で組み立てている訳ですね。


 そうやって作られた調書を見る裁判官も裁判官で、証拠として提出された物に対しての、証拠力の評価というのが「何人にも冒されない自由」の下でなされている。

他人の「何人にもおかされない筈の自由」を侵害したからこそ、彼等は法廷に立ち、拘置されているということは無視ですか?


それが本当に正確に行われていればよいのですが、法理という枠の中で無謬的であろうとするために、社会的に見て、あるいは自然科学、医学などの見地から見ると、明らかに誤った判断だって、素人であれば、下してしまう危険性を免れない。三権分立の落とし穴だと思っています。
佐藤 そうですね。検察、特に東京地方検察庁特別捜査部が全知全能であるというのは神話です。ごく標準的な霞が関官僚に過ぎません。

あらゆるミスを許さない無謬性を検察にだけは求めると。司法関係は神の領域と言いたい訳ですね。人間には人間を裁く事はできないと。


伊東 またさらに、その先で量刑を決めるところでも情状の酌量という、「さじ加減」とも言い直せる領域が存在していて、素直に自分の罪を認めてしまうようなナイーヴな人が「自覚的である」「よく反省はしている」「だがそれをもっても極刑をもって臨まざるを得ない」なんてことになる。なんで「臨まざるを得ない」のか、説明しろと言われると、実は決定打なんかないんですね。裁判官が確信を持っていることが一番大事。つまり、この人は「確信を持って人に死を言い渡す」。法服って、そういうことを言うために黒色なわけではないと思うのだけれど。

それは貴方と貴方達サヨクの偏見です。


 ともあれ判断は裁判官の自由な心証に完全に任されていて、これが三権分立と言われるものの実情でもある。

詭弁だらけの論証だね。


もちろん僕も、友人や知己に裁判官も裁判官経験者も何人もいるので、裁判官が全員悪いなんて言うつもりはない。

貴方の友人だから全員良い人だとでも言いたいのか?なんて傲慢な奴だろうか・・・。


でも、彼らが普通の人間で、また専門外のことには完全に素人だ、ということはよく知っている。

専門外の事で素人なのは当然だが、それが何か悪いのだろうか?物理学者が剣道の門外漢だと何故いけないのだろうか?大学教授が料理の門外漢ではいけないのだろうか?裁判官は万能の知識を備えた恐るべき法を扱う神でなければならないのか?


 検察側の方で「さ、この型にはめましたよ、よろしく量刑を」と出してこられた時に、検察官も官ですから、立件したケースで無罪なんかになると、その検事さんの影響力が失墜するとか、後々のキャリアパスに影響が出る、なんてことはあり得る。

立証してくれ。<なんてことはあり得る。


 これは裁判所もやはり官ですから同様だし、裁判のたびに弁護士は入れ替わるけれど、判事と検事はいつも一緒に仕事してるから、絶対に貸し借りみたいなことがある、って言う弁護士さんは多いですね、そういうお話をうかがうと。

>絶対に貸し借りみたいなことがある、って言う弁護士さんは多いですね、そういうお話をうかがうと。
伝聞の形で自身の偏見を補強しようとしている。一般的な詭弁のパターンだ。


 ともあれ、「自由」な裁判官のさじ加減で、判決が出来上がってゆき、その根拠は、と問われた時、「自由な裁判官の心証」が絶対的で、それに「なぜ」を問うことがほとんどできない領域があることを、僕は同級生の豊田亨君(地下鉄サリン事件実行犯。一連のオウム真理教事件で起訴され、1・2審、死刑判決、最高裁に上告中)の裁判を通して知ったんです。

奇妙な論理が補強する素材があったと訳だね。まあ、この人達に言わせれば、地下鉄で毒ガスを撒く事は死刑になるほど悪くない。被害者には気の毒ですが、貴方がたの弁護士は別人ですから、貴方がたの悲しみは私には関係ありませんと言うスタンスなのだろう。


 だから、司法の素人である国民が、この「裁判官」の役を簡単にしてしまうという「裁判員制度」などには、たいへん気をつけねばならない、という意識を持つようになったのですが。

この人達は多分裁判員制度賛成派なのだろう。
この記事を読んで不快にならないなど、正常な情操の持ち主ならありえまい。



******

とまあ、サヨク節全開で毒電波を撒き散らしているな、としか思えない訳です。
主権者である国民は、犯罪者であっても国に裁かれる事はありえない。

・・・・。もう狂ってるとしか。
この国には一億人を超す主権者がおり、その一億人の内で、毎日何万人、何十万人の人達が「他の主権者から基本的人権を脅かされているか」と言う事がわかっていない。

他人の基本的人権を脅かした者、他人の基本的人権を完全に否定する行動をとった者でも、「自分のお客様」なら「正義感に燃えて弁護」すると言うのがサヨク弁護士の脳内ロジックなのだろう。

異常過ぎてその片鱗さえ窺い知る事ができない。

屁理屈ばかり捏ねる輩とは、何をどうやっても醜い代物であり、実際の話、人倫に最も縁の無い輩達なのだ。

恐ろしい・・・。この対談には「国に対する憎悪」と言う、作られた憎悪を感じる。
彼等も言って見ればカルト教団の思想に染まりきった連中と同じなのだろう。

ともあれ、このエントリーはこれで終わります。
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