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世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略号外 江田島孔明

「そのときお前の左手は何をしていたのだ」

今回は、戦略の学習のため、日本史上最大の戦いである関が原の合戦において「黒田如水は天下を取ることができたか」を検証してみたい。

多極化した世界で、「第三極」を目指すという、如水に似た立場にある日本にとって、彼の行動は大変、参考になる。
私は問題提起に留め、読者諸兄の忌憚の無い意見や評論により、議論を深めたい。

ポイントは、関が原の当時、真の意味で戦国大名と呼べる勢力は、家康と如水しか残っていなかったということだ。
他の大名はほとんどが、キャリア不足の二世であった。

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関が原における如水の行動は以下のとおり。

関ヶ原の戦いにおいて家康が勝つためのポイントがいくつかあった。

 家康が会津上杉征伐に秀吉恩顧の諸将を率いて東へと向かったとき、その留守を狙って三成が挙兵した。

 三成一派を崩壊させることによって敵対勢力を廃そうとしていた家康にとっては渡りに船であったが、これを家康独自の軍隊で叩き潰すのでは結局三成との私戦となる。
 天下分け目の戦にするためには、現在会津征伐のために行動を共にしている諸将をそのまま家康軍として振り向ける工作をしなければならなかった。

 多数派工作がなりたたないと孤立してしまう。

 会津征伐軍は豊臣系の諸将がかなりの割合を占める。
 福島正則、藤堂高虎、加藤嘉明、細川忠興、浅野幸長らである。
 これら諸将は反三成ではあるが、豊臣恩顧であり秀頼に刃向おうとはしていない。

 明確に家康側と言えるのは藤堂高虎くらいではなかったか。
 状況はよくない。
 ほとんどの諸将の妻子は大坂にいる。人質と言っていいだろう。
 細川忠興の妻ガラシャの悲劇はよく知られるところ。

 ましてや、主君である豊臣秀頼は西軍総大将である毛利輝元と大阪城にいる。
 見方によっては秀頼に逆らうことになるのだ。

 この大軍はあくまで会津征伐のためであり三成追討軍ではない。
 三成を討てとの秀頼の命令もない。
 しかし彼らを寝返らせないと以後の天下経営が難しくなる。

 ここで有名な小山評定である。
 小山で諸将と軍議を開いた際に、家康は問うた。 

 「みなさんどうします?」

 ここで福島正則が、「家康につく」と先頭きって宣言したため、他の諸将も家康になびいたと言うのだ。

 秀吉の恩が最も濃く現在も「豊臣家いのち」の猪武者正則がそう言ったため、迷っていた諸将も我も我もと家康傘下になったと言う。

 この軍議がうまくいかなくても、家康単独で三成軍と戦うことは可能である。
 しかし天下を二つにわけることにはならず、勝っても簡単に家康が天下経営をする基盤とならない。
 多数派工作が最も重要なのだ。

 ここで福島正則の発言は大きかった。
 これで関ヶ原の合戦が成立したとも言える。

 この発言を正則にさせたのは黒田長政の工作であったと言われる。
 長政が言わせたのだ。

 黒田長政はあの黒田官兵衛如水の子である。
 黒田如水は、秀吉に天下を取らせた男として名高い。
 秀吉軍の軍事参謀として、中国大返しを実現させたのは如水である。

 こうしてみると、秀吉、家康両者の天下獲りに黒田家が大きく関わっているのがわかる。

 このときもしも福島正則の発言がなかったら。先頭きって賛成した人物が例えば山内一豊のような小物であったとしたら、真田昌幸だけでなくもっと離反者が出ていた可能性がある。
 みんな大坂に妻子を置いているのだ。日和見も出ただろう。
 そうなると後の天下経営にかなりの影響が出ていたと考えられる。合戦もどうなっていたかわからない。

 家康は圧倒的軍勢を所持していたとはいえ、その本隊は秀忠が率いて、真田昌幸に足止めされて本戦に間に合っていないのである。
 天下の流れは変わった可能性が高い。

 そして関ヶ原本戦。家康は大垣城に居る三成をおびき出す。
 家康は城攻めより野戦を得意としていたからだ。
 三成は引っかかり関ヶ原で一戦まみえることになる。
 しかしこの時点ではまだ三成有利である。

 関ヶ原は山に囲まれた盆地。その平地の周りに西軍は陣取った。
 三成や大谷吉継、小西行長、宇喜多秀家らが正面に構え、毛利秀元や吉川広家、小早川秀秋の大軍が側面の山上に陣を構えた。
 ここへ東軍が来ればフクロのネズミ状態である。勝ち目は薄い。
 (三輪注:丁度カンナエの戦いのカルタゴ軍の最終配置が西軍の初期配置、ローマ軍の包囲された後の配置が西軍の初期配置にそれぞれ似通っています。配置図を見ただけで「西軍の勝ちだね」と判定した後世の人さえ居ました。)

 しかし、既に吉川広家と小早川秀秋は家康に内応していた。
 そのため、側面からの西軍の攻撃がなく、逆に秀秋は裏切って大谷軍を叩いたため、家康は勝つことが出来たのだ。

 この吉川、小早川両川に工作し寝返らせたのはまた黒田長政だったと言われる。
 これはただの内応では勝負は決しない。西軍として陣を構えてなおかつ西軍に味方しないことが重要。
 始めから家康軍に参じていたら三成もそれ相応の対処をしただろう。

 こうして、戦いは半日で決着する。

 こうしてみると、いかに黒田長政の活躍が大きかったかわかる。
 終戦後、家康は長政の手をとり礼を繰り返し、福岡52万石に封じた。最大の功労者である。
 その頃、オヤジの如水はどうしていたか。
 如水は、九州で兵を挙げていたのである。とは言っても、豊前中津17万石の兵はほとんど長政が率いて関ヶ原に行っている。
 如水は、手兵300あまりから始め、蓄財で新規兵を召抱えて、西軍に与した旧領主大友氏と戦った。
 息子と同様東軍に与したように見えるが、とはいえ九州は加藤清正を除き、島津氏はじめほとんどが西軍なのである。

 そこに戦力なしで兵を挙げるとはよほどのことである。
 しかし、大友氏に勝ち戦力は増え1万3000ほどになった。
 瞬く間である。戦さの天才と言っていいだろう。

<参考>

豊後の情勢

 豊前の隣国・豊後(現大分県)には、当時の石高順に見ると竹田城の中川秀成(七万七百石)を筆頭に、臼杵城の太田一吉(六万五千石)・佐伯城の毛利高政(二万石)・高田城の竹中重利(二万石)・富来城の垣見一直(二万石)・安岐城の熊谷直盛(一万五千石)・府内城の早川長政(一万石)といった大名たちが存在、また細川忠興所轄(本領は丹後宮津二十三万石)の杵築城(六万石)には城代松井康之と有吉立行がいた。

 関ヶ原直前の時点では熊谷・毛利は大垣におり、早川は丹後田辺城攻撃に加わり、太田もまた西軍方に属していたが、竹中・中川ははっきりとは態度を決めかねていた。
 ところで、なぜ丹後宮津の細川家が遠く離れた九州は豊後杵築に所領があるのかというと、これにはちょっとした子細がある。

 忠興は前田利長の縁者であったため、「利長謀反」の噂が流れた際、細川家にも嫌疑がかけられた。
 あわてた忠興は家康の下に何度も書状や誓紙を送って弁明に務め、ようやく許される。
 さらに三男の光千代(後の忠利)を人質として江戸に送ったのだが、この一連の行動を家康から評価され、慶長五(1600)年二月七日に「大坂の台所料」なる名目で杵築六万石を加増されたのである。


策士如水始動

 さて、隠居して悠々自適の日々を送っていた如水のところへ、三成からの西軍加担要請の密書が届いた。彼は使者に笑って「九州において七カ国の恩賞を頂けるのならお味方いたしましょう」と答えて返し、すぐさま行動を開始した。
 もちろん本気で西軍に加担するつもりはない。
 三成の敗戦を予想した彼は、まず工事中だった城の修繕を中止させ、高田城主で故竹中半兵衛重治の従兄である伊豆守重利を東軍に誘った。

 この機会に隣国を攻略し、少しでも所領を拡大しておこうとしたのである。
 いや、ひょっとすると策士如水のこと、本気で九州を平定して家康と互角に対峙するつもりだったのかもしれない。
 ただ城内の兵の大半が長政に同行していて少なかったため、彼は備蓄していた米や銭を大量に放出して老若男女を問わず兵を募り、ひたすら浪人をかり集めた。
 そして第一次募集だけで三千六百人が集まり、あっという間に八千程の兵力を作り上げたという。

 同じ頃、西軍の総大将に担ぎ上げられた毛利輝元や宇喜多秀家は、大坂にいた太田一吉の子一成に豊後杵築城の接収を命じた。
 彼は早速領国へ戻って杵築城の守将松井康之に使者を発するが、康之は怒ってこれを追い返した。
 太田父子は杵築城を攻めにかかるが、如水は大砲三門を、加藤清正は食糧と弾薬などを城中に送ってこれを支援した。

 ここに大友義統という人物がいる。
 かつては島津・龍造寺氏と「九州三国志」とも言える三つどもえの戦いを演じた、豊後国主大友宗麟の子である。
 義統は秀吉から豊後一国を安堵されていたが、朝鮮の役で敵前逃亡したとして改易され、この頃周防に不遇をかこっていた。
 毛利輝元等は秀頼の命と称して「御家再興のチャンス」とばかりに義統をたきつけ、九州へ攻め入らせた。
 勇躍した義統は九月九日に長門から海路豊後に上陸、立石(現別府市)に陣を構えて杵築城に狙いを定める。
 竹田城でこの挙を聞きつけた田原紹忍ら大友旧臣が合流、こちらもあれよあれよという間に三千近い軍勢となった。
 如水は義統に東軍につくよう勧めるが、彼は聞き入れない。

 杵築城の松井康之から救援要請を受けた如水は、とりあえず先発隊として援軍(一説に三千とある)を杵築に向かわせ、自らも早速この急場拵えの軍勢を率いて出陣した。

如水、杵築城へ

 中津から杵築までの間には、順に高田・富来・安岐の各城がある。
 九月十日に高田城付近に到着した如水は、竹中重利に参戦を求める使者を出すが、あいにく重病を患っていた重利の返答が遅れた。
 そこで城攻めの姿勢を見せて威嚇すると、驚いた重利は子の重義に兵二百を添えて差し出した。如水はこれを加えて軍を進める。
 途中の富来・安岐両城は、西軍に属し美濃に出陣中の城主垣見一直・熊谷直盛に代わって筧利右衛門と熊谷外記がそれぞれ五百ほどの兵で守っていたが、如水はこれを後回しとし、押さえの兵を残しただけで杵築へと向かった。

 一方、松井康之と有吉立行の守る杵築城ではすでに大友勢の攻撃を受けており、三の丸・二の丸は破られ、十二日には本丸で激闘が行われていた。
 しかしここへ如水の先発隊が到着して城外に殺到したため、大友勢は囲みを解いて立石へと撤兵した。まさに間一髪のことであった。

 さて援軍を得て勇気百倍した杵築城の松井康之と有吉立行は、戦機を逃すなとばかりに如水の先発隊とともに出陣、翌十三日未明に立石へ向かった。
 守勢から一転攻勢へ、まさに電光石火の変わり身である。
 これを聞いた大友勢は、九百の兵を三段に分けて待ちかまえる。

 そしてこの日の昼頃、両軍は激突した。場所は立石とその北にある実相寺山の間に開ける石垣原である。

石垣原の戦い

 両軍は三日間で計七度の激闘を演じたという。
 初めのうちは大友方もよく頑張ったが、如水の本隊が十三日夕刻に到着したため数に勝る黒田勢に押され、立石の本陣へ退いた。
 如水は翌十四日に大友方本陣の立石を三方から囲み、強攻策を主張する家臣の意を退け、降伏勧告を行った。
 もはや戦意を喪失していた大友方の総大将義統は翌十五日に剃髪して降伏、母里太兵衛らによって護送され、中津へと送られた。
 両軍の死者は大友方二百余、黒田方三百七十余というから、大友勢もよく頑張ったと言えよう。
 しかし、黒田方もさることながら、大友方では先鋒左翼の将・宗像掃部助鎮続、右翼の将・吉弘加兵衛統幸らほとんどの将が戦死した。
 余談だが、この吉弘統幸は無双の槍使いとして有名で、血筋としては筑前岩屋城で壮絶な最期を遂げた高橋紹雲の甥、すなわち立花宗茂の従兄にあたる人物である。

 この後如水はすぐに軍を返し、十七日には安岐城を包囲、亀甲車で城壁を崩し、間断なく大砲と火矢を城内へ射込んで威嚇した。
 頃を見計らって誘降の使者を送ったところ、守将熊谷外記は十九日に降伏、無血開城に加えて城兵の大半までも得るという結果となった。
 数を増した如水勢は続いて富来城へ軍を進め、誘降の使者を出すが筧利右衛門は拒絶したため、射撃などを加えて威嚇する。そこへ幸運な情報が飛び込んできた。

 如水は富来城を包囲した際、海上にも哨戒船を配置していたのだが、これが上方からの飛脚船を捕らえた。
 そこには城主垣見一直から利右衛門に宛てた西軍の敗報を認めた密書があったのである。
 如水は早速これを城内に送って「早々に降伏すれば、城兵の命は皆助ける。当家に仕官を望む者は高禄で召し抱える」と再度降伏を勧告した。かくて十月二日に富来城も無血開城、城兵の大半をこれまた収めたのである。

 さらに如水は臼杵城をも収め、別働隊に佐伯・角牟礼・日隈城を攻略させ、あっというまに豊後を平定してしまう。
 次に如水は北へ向かい、中津を素通りして香春岳・小倉両城も落とし、なんとわずか一ヶ月余で豊前・豊後二カ国を手中に収めてしまうのである。

 家康は国元の如水が兵力を持っていなかったため、やや軽視していた嫌いがある。
 ここ九州北東部では、秀吉さえ恐れた如水の知謀と行動力・統率力が遺憾なく発揮された。しかしその如水にも、さすがに西軍がわずか一日で敗れ去るとは予想できなかった。
 西軍の敗報を知った如水は、どんな気持ちで以後の城攻めを行ったのであろうか・・・。
 この後久留米城や柳川城攻めにも活躍した如水だが、家康は子の長政には筑前に大封を与えたものの、如水には何の恩賞の沙汰もなかった。

 黒田如水にはこの時野望があったと言われる。
 彼の半生を見ると、秀吉の参謀として貢献しながら禄は驚くほど少なかった。光秀、勝家を破りようやく3万石程度になったがまだ大名とも言えない。
 九州征伐を軍監として成功させてようやく中津17万石となったが、功にしてあまりに少ない石高である。
 「秀吉は如水を恐れている」というのが定説だった。
 この男に100万石与えれば天下を獲られてしまう。
 そう恐れて秀吉は如水を飼い殺しにしたのだと言われる。
 戦には負けなかった。
 秀吉が唯一敗北した小牧・長久手の合戦には如水は主として中国で毛利との交渉ごとにあたっていた。

 天下が乱れたと知った如水は、最後のチャンスと見て天下を狙ったのかもしれない。
 結局如水は軍を発してわずかの間に豊前、豊後二ヶ国を制圧した。
 恐るべき早業である。如水の知謀と行動は凄まじい。秀吉が恐れたわけである。
 このままいけば九州平定も視野に入ったと思われたが、関ヶ原東軍勝利の報が届く。

 如水はもっと長引くと予想していたらしい。長引けば如水にもチャンスが生まれた。
 留守部隊しかいない中国の毛利を撃破して備前、播磨にまで到達すれば、そこは如水の故郷。大坂を衝ける距離でもある。
 兵300から始めて二ヶ国を陥れた如水なら可能だったかもしれない。
 東西対決が進み双方疲弊したときに第三勢力を登場させる。如水の青写真はそうだったであろう。
 しかし、皮肉にも息子長政の活躍によって戦争は早く終結した。
 前述したように、長政がこれほど働かなければ東西対決はもう少し長引き乱世になっていた可能性もあったのだ。

 如水は天下決着の報を聞き、さっさと矛を収め、さも東軍に味方して戦ったかのように家康に報告した。
 もともと隠居の身である。家康は、「ヤツは狙っていたな」と分かっていたかもしれないが、長政の功もあり咎めはなかった。

 如水と長政が連動していたら歴史はもっと興味深い展開になったかもしれない。親子で正反対のことをやっていたのだから。
 伝説がある。長政帰城の際、如水に、家康は3度も自分の手をとって礼を言ってくれた、と報告した。そのとき如水は軍功を褒めもせず、取った手は右手であったと聞いて、

 「そのときお前の左手は何をしていたのだ」
 と言ったという。

 片手が空いていれば刺せたではないかと。戦国の世を生きてきた如水の本音であったかもしれない。

以上
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コメント
この記事へのコメント
ポイントは

1.家康が一日で勝ってしまった関が原がなければどうなっていたか

2.関が原の戦い後、如水が清正・毛利・島津・秀頼を纏め上げ、西軍参謀のような形でリターンマッチを家康に挑む事が可能だったか

3.そもそも如水が長政と示し合わせ、家康を孤立させる策をとっていたらどうなったか

4.如水が大友宗麟のように、スペインと組んでいたらどうなっていたか

という様な点でしょう

2007/05/26(土) 10:30 | URL | 孔明 #-[ 編集]
如水は多数派工作をやっておくべきでしたな。

振り返れば国際金融資本はマスコミを駆使して洗脳、多数派工作に怠りない。バブルで一部の階層だけ損をしたのに、まるで全国民が損をしたように放送し、本当に日本を不景気にした。
久米宏は今からでも暗殺すべきだ。
2007/05/26(土) 10:58 | URL | 大澤 #-[ 編集]
煎じ詰めていえば、如水の誤算は

1.息子長政が家康のために多数派工作をやってしまい、成功したこと
(小山評定)

2.関が原が一日で決着したこと

この二つがなければ、如水の手腕をもってすれば、西日本連合を纏め上げることも不可能ではなかったかも
2007/05/26(土) 11:05 | URL | 孔明 #-[ 編集]
>孔明様
しかも、息子が小山評定を成功させた後ろ盾が父親の如水だったのですからね。
あの息子は個人的な好悪で動いていますが、その際に父親のやり口と資源をきっちり使っています。
実際、息子の使った小早川とのコネは父親のコネそのものですからね。

家臣団は如水の息子を好いていましたが、やはり先代と言う事で早く(名目上)隠居しすぎたのが原因ですね。
如水が多数派工作用の資源を息子に与えてしまっていたのです。

彼の最大の誤算でしょうか?
でも、如水自身のあの警戒のされ方を考えると、早めに先代になってしまったのは適当とも言えます。
関が原の様な降って沸いた様な展開を、秀吉に凹まされていた当時の如水には想像できなかったのかもですね。

まあ、人間的な負け方と言えば負け方ですし、如水自身は我が道号に苦笑いしてしまったかも知れません。

頭良過ぎるし、家をキチンと守ろうとした手筈が、この関が原だけに限っては逆転しているんですね。
まあ、それでも息子の仕業と、自分の与えていた物、物心両面とコネの大きさに、やはり如水はいろいろと考えてしまったでしょう。

俺が仕掛けたらどんな事になっただろうかなと。

2・の関が原が一日で終わってしまったと言うのは確かに誤算だったでしょうね。
けど、包囲が完成せず、しかも内部からの裏切りが起きるとなると、そんなに長引きはしないのも自明の理で・・・。

要は如水が関が原の計画それ自体を知る立場になかった事、その事自体が既に失敗を確定させている訳ですね。(完璧に結果論ですが)
2007/05/26(土) 11:40 | URL | 三輪耀山 #X.Av9vec[ 編集]
良いポジションにいた官兵衛
>4.如水が大友宗麟のように、スペインと組んでいたらどうなっていたか

  この点、官兵衛(馴染みがあるのでどうしてもこちらで書いてしまいます)がスペインやポルトガルに支援を要請したという話は聞きませんね。確かに、関ヶ原が長期化したら、どうなっていたかわからなかった。
  戊辰戦争で幕府が負けたのも、結局は初めから西日本のシーレーンを奪われていて、農業国の東日本しかなかったからですね。同じことを官兵衛が考えていたら・・・鳥取城の渇殺しを考えた人物ですから、そういう視点は当然持つことができただろうと思います。
  そうなると、家康の天下は小早川秀秋の籠絡が全ての鍵だったわけですね。関ヶ原は彼にとってまさに薄氷を踏む大勝、大博打だったということになりそうです。
2007/05/26(土) 11:41 | URL | ろろ #-[ 編集]
最初の4番、スペインとの同盟ですが、無理でしょうね。

関が原の少し前にドレイクが無敵艦隊を叩き、その後の関が原の時点では、確かトロンプ提督が決定的な損害を与えた頃だったと思いますから。

それらの事態収拾にスペインは追われていたと思います。
2007/05/26(土) 11:51 | URL | 三輪耀山 #X.Av9vec[ 編集]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98
>しかし、本気で天下を取ろうとしたのであれば、息子の長政と綿密な打ち合わせが必要であり、それをしなかったのは如水の手腕を考えれば手落ちというより不審である。そのため、天下を狙う野望を持っていたというのは見せかけで、如水は家康に脅威を感じさせ、一方で息子の長政が家康に忠誠を尽くすことにより、黒田家の存続と繁栄を狙った深謀遠慮であるという説もある

黒田如水は天下を取ろうと言う意志が
そもそも無かったと言う
意見も有る訳だろうか



>2.関が原の戦い後、如水が清正・毛利・島津・秀頼を纏め上げ、西軍参謀のような形でリターンマッチを家康に挑む事が可能だったか

家康を豊臣に対する反逆者等として
上杉も合わせれば
勝算は無かったのかどうかだが
毛利は黒田に味方したのか
どうかだが



>3.そもそも如水が長政と示し合わせ、家康を孤立させる策をとっていたらどうなったか

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98
>嫡男・長政は家康の養女を正室として迎えていたことから、秀吉の死去前後から家康に与し、豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、

これでは中々
調略は困難かも知れぬが

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%B0%E9%99%A2
>従来の通説や歴史小説では、関ヶ原合戦では東軍(いわゆる武断派)のために動いたとされてきていたが、近年の研究では石田三成らと親しく(三成の三女・辰を養女としている)、関ヶ原の合戦時にも西軍寄りの姿勢を取っていた可能性が指摘されている。

北政所は東軍の為には動いていなかったと言うから
北政所等を上手く利用すれば
調略は不能だったのかどうかだが



>4.如水が大友宗麟のように、スペインと組んでいたらどうなっていたか

西軍とスペインと組んで戦えば
更に有利だったと言う
事かも知れぬが



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%B7%A6%E8%BF%91
>しかし、その夜に島津義弘・小西行長らと共に提案した夜襲は、またもや三成に受け入れられずに終わった。(夜襲はそもそも進言されていないという説もある。そもそも夜襲を掛けるタイミングとしてはうってつけでありすぎ、逆に見破られる公算も高かった状況である。百戦錬磨の猛将が提案するにしては、多少お粗末な感も拭えない。また、夜襲策の出典自体「日本戦史」(旧日本軍参謀本部編)であり、信憑性は低い)


夜襲をすれば此れが読まれていたとしても
島津が参戦し
西軍が勝利した等と言う意見も有っただろうが
夜襲の献策自体が事実では無いと言う
事なのだろうか



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6
>小早川秀秋隊は、大谷吉継隊右翼を攻撃する。吉継は秀秋の裏切りを予測して温存していた500の直属兵で迎撃し、


>ところが、藤堂高虎などの内応策によってそれまで模様眺めをしていた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らの西軍諸隊も小早川軍に呼応して東軍に寝返る。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変する。


小早川は兎も角脇坂等の裏切りは
読めなかったと言う事なのだろうか
(此れも読んでいれば
 兵の配置を変更する等して
 勝利出来たと言う可能性も
 有る訳だろうか)
2007/05/26(土) 11:53 | URL | 某研究者 #n08XGfOg[ 編集]
2.関が原の戦い後、如水が清正・毛利・島津・秀頼を纏め上げ、西軍参謀のような形でリターンマッチを家康に挑む事が可能だったか

これはありそうもないですね。
なにしろ、何故彼が如水と名乗っていたかと考えると・・・。
ある意味諦めが良過ぎるんですよね。
関が原が一日で決まった時点で、如水にしてみれば「わしって何でこんな星の下に生まれて来てるんだろうな」と諦念を強く覚えたでしょうし。
リターンマッチを考える位なら、如水と名乗らないだろうし、考えてやってみたら関が原のこの顛末ですしね。
「輝いてたぜ、わし」こんな感じで関が原以後は大人しくなってしまってますね。<如水

3.そもそも如水が長政と示し合わせ、家康を孤立させる策をとっていたらどうなったか

これが一番如水の燃えた展開でしょうね。
これ中心に今後は話して行きます。
関が原が終わった後では、もう如水は動かないでしょうから。
2007/05/26(土) 12:01 | URL | 三輪耀山 #X.Av9vec[ 編集]
私見ですが、如水は長政の器を小さく見すぎていたのだと。
しかし、実際は長政は如水張りの調略をやってしまい、関が原で東軍勝利の勲一等でした。

ここが誤算であり、如水としては本音はアリバイ作り程度の意味で上杉征伐に同行させたのではないかと。

小山評定や小早川寝返りは長政の手柄ですが、そこまでできるとは思っていなかったのです。

つまり、如水が長政に「内府の好きにさせるな」といい含めとけば展開は違ったはず。結果として

1.小山評定で豊臣恩顧の半分が脱落

2.関が原の野戦が開始されず、大垣と赤坂で持久戦あるいは、大阪城か佐和山で西軍篭城

こういう展開なら、如水が動けば毛利島津加藤を束ね、西日本の制海権である瀬戸内を支配し、東軍に対して徹底的な持久戦を挑めるのです。
そうすれば、時間の経過は西軍有利に働くでしょう。

石田三成にはなにか形で引っ込んでもらう必要はありますが。

私見ですが、如水はそこまでの戦略構想があったのではと思っています。それを長政がぶっ壊した・・・

息子の器量を見誤った自分の目利きを生涯苦笑したでしょう・・
2007/05/26(土) 15:57 | URL | 孔明 #-[ 編集]
「2.関が原の戦い後、如水が清正・毛利・島津・秀頼を纏め上げ、西軍参謀のような形でリターンマッチを家康に挑む事が可能だったか」

http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/otsu.html


これについては、上記URL大津城の戦いをご覧ください。西軍敗戦時
立花宗茂率いる西軍最強舞台1.5万が大津を落としていました。宗茂
はこの後、史上最強の防衛拠点である大坂城での篭城を主張します。毛利二万が無傷でした。あわせて3.5万の兵が大坂の篭り、関が原で疲弊した東軍を迎え撃てば・・・恐らく長期化したでしょう。ここで如水の出番です。

毛利島津加藤を束ね、西日本の制海権である瀬戸内を支配し、東軍に対して徹底的な持久戦を挑めるのです。
そうすれば、時間の経過は西軍有利に働くでしょう。

これも、毛利輝元が開城したことで消えましたが。
2007/05/26(土) 16:07 | URL | 孔明 #-[ 編集]
私が如水を真に偉大だと思うのは、関が原が一日で決着し、しかも勲一等が息子だったということ知ったとき、全ての野望を捨て、黒田家の保全のため、最大限の努力をしたことです。結果、筑前黒田52万石は幕末まで続きます。前半生は智謀の人、晩年は風流人、人として、かくありたいものです。
2007/05/26(土) 16:22 | URL | 孔明 #-[ 編集]
教訓として今から国際金融資本が孤立化させる多数派工作を行うこと。でしょうか。ネットの蛇口は誰も止めることができない(と思う)。
2007/05/26(土) 17:59 | URL | 大澤 #-[ 編集]
如水が所領としていた豊前の国は地政学的に非常に重要です。瀬戸内のシーパワーと九州のランドパワーの結節点です。ここを抑えると、両方ににらみがききます。豊後と豊前を一体で支配すれば、瀬戸内と九州を結合も遮断もできることになり、豊後水道や関門海峡というチョークポイントも支配できます。だから毛利や大友はここの支配に拘ったのです。

つまり、シーパワーの視点からみると、豊後や豊前は日本のチョークポーンとであり、スエズのようなものです。西欧勢力が日本を支配しようとする場合、必ず、九州南部と東部を支配下におきます。これは戦国時代(大友宗麟)、第二次大戦(本土決戦オリンピックプラン)で前例があります。

だから、関が原以後、江戸幕府はこの地に譜代大名をおいて、直轄支配したんです。
2007/05/26(土) 19:16 | URL | 孔明 #-[ 編集]
太陽の帝国の柳生すばる氏が・・・
こんばんは、お邪魔します。

かつてここで論戦させてもらった
柳生すばる氏がこんなエントリーを
書いているわけですが・・・

http://empire.cocolog-nifty.com/sun/2007/05/post_8681.html

これは手ひどい怪電波です。
以前から彼は経済に関してこの類の
事実誤認を繰り返していたので、
コメントを書いて指摘していたら
即座に削除されるようになって
しまいました。私自身はもう
ブログを書くのはやめましたので、
三輪さんがエントリー書いて
即論破しておいて欲しいです。
忙しくなければお願いします。

あの柳生すばる氏が維新政党新風
を応援しているようですが、これ
ではどうしようもないって感じです。
2007/05/26(土) 21:01 | URL | 蒼き鎮守の森の主 #-[ 編集]
>蒼き鎮守の森の主様
あの人にはもう関わりたくありません。
関わるだけ無駄ですし、そんな事に費やす時間がもったいないのです。

けど、書いている事は見てみました。
で、私としては「究極の公務員叩き」ともなりえる、とある代案を提案しようかとも思っています。

繰り返しますが、彼を論破しようとは思っていません。
新風連の瀬戸様は、このブログを毎日ごらんになっておられる様なので、柳生すばる氏と冷静に比較なさった上で判断なされると思います。

しかし、ブログをおやめになったのですか?
もったいないですね。
まあ、皆それぞれに思う所や事情がおありでしょうから、それはそれで仕方ないと思いますが。

>孔明様
そうですね。
如水の凄さは、自身の野望を諦められると言う所でしょう。

息子も手塩にかけて育てたからこそ、父の意表を突くほどに優秀な調略を使えるようになって居たのでしょうしね。

>大澤様
その事については、今後考えてみようかと思います。
2007/05/26(土) 21:11 | URL | 三輪耀山 #X.Av9vec[ 編集]
如水が究極の戦略家ならば長政を切り捨て、西日本連合を率いて大坂入城し、家康に決戦を挑むという可能性も十分ありました。しかし、彼はそれをせず、息子の擁護に走った・・・戦略家より、一人の「父親」として決断したのでしょう。このあたり、魅力を感じます。
2007/05/26(土) 21:24 | URL | 孔明 #-[ 編集]
>孔明様
ええ、そう言う所が潔いと思います。<如水

更なる混乱に賭けるよりも、息子の将来と家の安泰を考えたと言う事ですね。

良い意味での日本人だと思います。
2007/05/26(土) 21:57 | URL | 三輪耀山 #X.Av9vec[ 編集]
三輪様へ
なるほど、了解しました。
柳生すばる氏は典型なんですが、
彼らのような人が「維新」を
出来るとは残念ながら思えません。

今の日本に対し少なくない失望を
抱えてしまい、ブログは閉鎖しました。

しばらくは傍観者になろうと思います。三輪さんを始めとして少なくない本物の憂国の士がいるのを知っています。

それにしても、現代日本の閉塞を
どうすればいいのか・・・。嘆かわしいです。
何よりの問題は臆病ですね。
臆病を排し、凛とした国家を造る。

日暮れて道遠しです。
2007/05/26(土) 22:00 | URL | 蒼き鎮守の森の主 #-[ 編集]
三輪様

「更なる混乱に賭けるよりも、息子の将来と家の安泰を考えたと言う事ですね。」

→この判断が戦国を収束せしめた日本の英知ではないかと。そして、この決断を巡って、日本と国際金融資本は激突します。間違いなく・・・
私が如水を評価するのは、これが理由です
2007/05/26(土) 22:00 | URL | 孔明 #-[ 編集]
如水と同様の判断は幕末期の慶喜、終戦時の昭和天皇が行っています。日本の英知です。これがあったから国際金融資本の植民地にならずにすみました・・・
翻って、平成日本はどうでしょうか
2007/05/26(土) 22:02 | URL | 孔明 #-[ 編集]
>蒼き鎮守の森の主様
維新を口にする連中の多くは小泉安倍の支持者ですね。
それが一体どういう事かもわかってないのが痛いです。

まあ、当方もできる限り頑張っては行きたいですが、ちょっと難しい事を書くと、皆様逃げ出してしまうのが政治ブログの悲しい特徴でして・・。

結局、破壊だけを求める人がとても多いと言う事です。
現在の日本の嘆かわしさは、自暴自棄になって外国を叩く事に喜びを感じる若者が増えている。

それに迎合して電波を飛ばしているのが柳生すばるですね。
みっともない有様ですが、臆病云々以前に、ああ言う醜態を喜ぶ馬鹿さを何とかしないと駄目だと思います。

まあ、lefty様やその他の見所のある若い人達も育って来ていますし。
今後は彼等に対しての納得できるメッセージを送れたらと思っています。

>孔明様
>そして、この決断を巡って、日本と国際金融資本は激突します。間違いなく・・・

ええ、私もそう思います。

ハンニバルの事を長々と論じたのは、「残酷さを維持したローマは後ろに下がらない」と言う事を述べたかったからです。
崩壊に瀕した連中は決して講和に応じないんです。
衰退の運命を理解させる為に何が必要かと言う事です。

現在の国際金融資本は、言ってみれば微速度撮影を行ったローマです。
ナポレオン時代の羊飼いだったローマ、世界恐慌を演出した直後は共和制初期の勃興するローマ、日本帝国を滅ぼした時がカルタゴ時代のローマです。

その後、アメリカを乗っ取った国際金融資本は、アメリカを使ってキリスト教を布教している最中の帝政ローマと同じ事になっています。
かつての栄光は失われつつあるのです。

待っているのは暗黒時代でしょう。
それは何百年も続きました。
我々はハンニバルになってはいけないと言う事ですね。

如水の様に、二番目で何ができるか。
それを考えなければならない。

ローマと対する時に矢面に立ってはならない。
これがハンニバルの最も大きな教訓だと思います。
2007/05/26(土) 22:53 | URL | 三輪耀山 #X.Av9vec[ 編集]
逆に、戦略論争としては、ローマを滅ぼすにはどうすべきであったかというのは議論されるべきではないかと思っています。私はローマの運命はビザンチゥムの支配権を失った時点で決まったと考えています。あそこが、日本で言えば、豊前や大坂のような地政学の要衝でした。ハンニバルはスペインを根拠にしていたため、ビザンチゥムまで手が回らなかったのです・・・
2007/05/26(土) 23:24 | URL | 孔明 #-[ 編集]
>孔明様
土地に固執すると言う事ではランドパワーですね。<ハンニバル
しかも本領の近くしか見ていない。

しかし、ローマ撃退の方法を考えてみれば、カルタゴ艦隊が地中海の制海権を得た後、その後に各拠点を攻撃しては引き上げる。

そう言う方向性を何故考えないかです。
ハンニバルはカルタゴ艦隊をどうやって勝たせるかについて研究した気配もないですね。

あの時点では、カルタゴ艦隊を勝たせる目はなかったのでしょうか?
それが疑問に思う所です。

ハンニバルは地中海に全く目を向けていない。

そして、北方のガリアより、連絡線の繋がる東方との連携をなぜ最重視しなかったのか?
やはり勢力図の問題でしょうかね?カルタゴ国内の。
2007/05/26(土) 23:35 | URL | 三輪耀山 #X.Av9vec[ 編集]
象を使ったハンニバルはローマの攻め方がランドパワーだったのです。
シーパワーでローマを攻めるには、補給路や交易路を断って孤立させる方向にもっていくべきなのです。

制海権は当初カルタゴが優位だったはず。
2007/05/26(土) 23:42 | URL | 孔明 #-[ 編集]
国際金融資本と戦うには志士きどりでハンニバルにならないことですな。士に走る人間は小泉たちにからめとられてしまう。
昭和天皇と黒田如水が少数いればよい。
私はランドパワーとなって長期戦で戦い、彼らが弱るのを待つ。
2007/05/26(土) 23:42 | URL | 大澤 #-[ 編集]
>大澤様
相手とこちらの領域をどう重ねあわさないか。
それが生存戦略、平和戦略の第一歩だと思います。
国際金融資本は、そう言う線を完璧に無視しようとする所で、明らかにシーパワー陣営の考え方です。

我々が戦うべき相手は、シーパワーの暗黒面なのです。
生半なランドパワーよりも余程たちの悪い相手だと思います。

>孔明様
いえ、実はハンニバル戦争の前の第一次ポエニ戦争の敗因は、カルタゴ海軍の敗亡が原因なのです。
カルタゴ側は制海権を失った状態で戦争に入っています。
これがとても問題なのですが、カルタゴとローマの距離は船で3日の距離です。
もう、最初から滅茶苦茶なんですよ、ハンニバルの戦争の組み立ては。

彼のやってた事の無謀さを、私がとがめるのはその点がメインなのです。
本国の安全をどうやっても図れないんです。
とりわけ、彼がローマ国内に突入して、イタリア南部に拘束されてから後は、その傾向が殊更に強まります。
綱渡りそのものなんです。
2007/05/27(日) 02:24 | URL | 三輪耀山 #X.Av9vec[ 編集]
ローマが海戦に勝ったのは、陸兵を相手船に乗り込ませるという戦術をとったためでした。つまり、接近戦です。私が言いたいのは、カルタゴははじめから、ローマ近海で勝負するのではなく、ビザンチンの支配と東方交易の遮断に全軍を傾け、ローマを兵糧攻めにすべきであったという事です。ローマは遠距離航海の技術が劣っていたので、こうされればカルタゴ優位でしょう。そして、ローマ海軍を釣りだして補足し、殲滅する。日本海海戦方式を当てはめるのです。
2007/05/27(日) 08:21 | URL | 孔明 #-[ 編集]
ローマとシチリアw巡って海戦したのが失敗です

第一次ポエニ戦争
(紀元前264年 - 紀元前241年):シチリア島をめぐる一連の戦闘と海戦が焦点となる。詳細は第一次ポエニ戦争を参照。

紀元前264年当時、シチリア島は西半分をカルタゴ領が押さえ、東半分がギリシア人勢力のシラクサ・メッシーナ領に属していた。シチリア島のメッシーナを抑えていた傭兵隊マメルティニに対して、シラクサのヒエロンがカルタゴと結んで討伐にかかり、メッシーナがローマに救援を求めた。このことがポエニ戦争の直接の原因である。

同盟関係にあったローマは援軍を派遣。シラクサはローマに撃破され、同盟国となるが、危機感を覚えたカルタゴは4万の軍勢をシチリアへ送る。カルタゴはアグリジェント、ハミルカル・バルカ将軍を前線にローマと戦うが、ローマは3万の軍を派遣し、アグリジェントは陥落。アグリジェントを制圧したローマ軍は、25000人もの住民を全て奴隷として売り払う。アグリジェント陥落が、ローマとカルタゴの全面戦争へと繋がる。

陸戦では諸都市を攻略していたローマだが、海軍を持たないローマはカルタゴの補給線を絶つ事が出来なかった。ローマはギリシア移民の多い同盟諸国から軍船を供出してもらい、更に「カラス」とよばれる桟橋を用いて敵の船に乗り込む戦術によって海戦を歩兵同士の戦いに変え、カルタゴ海軍を撃破する。

2007/05/27(日) 08:26 | URL | 孔明 #-[ 編集]
世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL155
                          
                               江田島孔明
今回は、イラク戦争以後の重要課題である、「アメリカの分裂」を冷戦後の国務省と国防総省の対立の視点から見てみたい。
国務省キャリアのアジア政策担当官は民主党員が多く、伝統的に「アジアにおける米中の覇権は両立する」というスタンスがある。
これは、19世紀の対中市場進出を巡っての国務長官ジョンヘイの門戸開放政策以来の、伝統的対中観に基づく政策だ。これは、米中関係を経済を基盤にすえて考え、あくまで、経済的に関係を築ければ、政治的に折り合いがつくと考えるところに特徴がある。
その反面、米軍は、マッカーサーが満州爆撃を主張した頃から一貫して、共産中国に対して敵視し、同盟国としての日本を重視する傾向がある。これは、あくまで米中関係を軍事や地政学の観点から捉える見方だ。
簡単に言えば、軍人(国防総省)と商人(国務省)では、国際情勢の認識がこれほど異なるということだ。
日本にも同じ構図がある。自虐史観がスタンダードな外務省vs.同盟関係重視の防衛省。いまだにチャイナスクールの親中ぶりは異様なものがあって、小泉時代からようやく政治家主導になりつつある段階だ。
今後は政権の方針ありきで、人事にもどんどん介入していかなければ、外務省の体質は変わらないだろう。極論すれば、外務省は既に、本来の外交機能を喪失し、政治家の通訳や旅行日程の管理といった旅行代理店業務が中核を占め、実際の政策は防衛省や経済産業省が企画立案することになるのは間違いないし、そうすべきだ。
米において、国際金融資本直営のクリントン政権時代、冷戦終結を口実に、軍と情報機関の拡大を嫌がり大掛かりなリストラを実行した結果、多くの有能な人材が流出したと言われている。結果として、情報機関が大幅にレベルダウンし、ブッシュ政権下でも予算が大幅に削減されるなど劣化が進んでいる。イラクの「大量破壊兵器」問題が最たる例となっている。911以後、あわてた政権は「愛国法」を急遽成立させたが、評判は惨々で、ブッシュ大統領の支持率が急降下した。
実際、米軍はイラン攻撃できるまでの余裕も失っているようだ。統合参謀クラスが「米軍が新しい脅威に対して迅速にそして完璧に対応する能力がない」として、イラン攻撃は拒否すると報告している。
これは、いよいよ、アメリカの軍と連邦政府(の背後の勢力)の乖離が甚だしく、不倶戴天の関係に近くなっている事を示している。
 実は、この様な「アメリカの分裂」こそが、日本にとっては危機であると同時にチャンスなのだ。アメリカ政府と背後の国際金融資本の支配に嫌気がさした、軍やCIAの真の愛国者を、日本がリクルートできる環境が整ったことになる。逆に言えば、この点につき、経済産業省主導で、効果的な政策を打ち出さなければ、優秀な人材を北京政府がリクルートする事になる。
事は一刻を争うのだ。この点について、冷戦終結以降の日米関係を参考に考えてみたい。
日本がなぜ、現在、混迷・低迷しているのか。90年代に入った時に、世界は冷戦の終焉という大きな歴史のうねりの中に入っていった。欧州は、EUの経済統合とか、全欧安保型の安全保障の仕組みとか、「冷戦後」をキーワードにして、冷戦後に一体欧州はどうしていくんだということについて真剣になってテーブルに着いた。
同様にアメリカも、80年代までに日本とかドイツの工業生産力に追い上げられ、アメリカの地盤沈下だとか衰亡とか、盛んにいわれた。それを受けて90年代に入って、クリントン登場のときの大統領選挙の争点を思い出してもわかるように、ITを軸にした情報技術革新をテコにしたアメリカの再活性、「新世界秩序」というキーワード、冷戦後の世界システムはどうあるべきかなどについて大本気になって考えていた。

 ところが日本はまことに不幸なことに、冷戦の終焉というタイミングとバブルのピ-クがシンクロナイズし、それが今日の低迷の大きなきっかけになっていると思うわけだ。
当時のこの国の指導部は、冷戦の終焉とか言っているけれど、金さえあればなんとかしのげるという程度の認識で、90年代に入っていった。たとえば金融システムについても80年代からBIS規制という議論が始まっていた。89年、ちょうど10年前、世界の銀行のランキングのトップ10のうち9行を日本の銀行が占めるという状況に対するアメリカの嫉妬心とも猜疑心ともつかない問題意識を背景にして、世界の金融システムのルールの変更がBIS規制という形で進みはじめていた。ところが日本の金融セクターの大部分は、株価さえ高ければ自己資本比率8%といったって大したことはないという程度の感覚で、BIS規制の流れに身を任せた。つまり根本にある、冷戦型の日本を反共防波堤として保護育成するという戦略から冷戦終結後は日本を経済上の仮想敵と見なすという、戦略の再設計が行われているということに対して著しく鈍感だった。
 
 80年代末、アメリカの衰亡ということがいわれていた国が、わずか10年を経ずして、“アメリカの活性化”ということがいわれているのは一体なぜか。いまのアメリカ経済を突き詰めていって行きあたるのはIT(情報技術)革新というキーワードだ。そもそも20世紀はアメリカの世紀だといわれてきた。T型フォードを生み出して世界に大量 生産・大量消費の仕組みをリードしてきたアメリカの世紀だと。ところが、70年代から80年代にかけて日本の自動車生産台数がアメリカを追い抜いたとか、粗鋼生産で日本がアメリカを追い抜いたとか、モノを作る力、つまり工業生産力すなわちハードという意味においては日本やドイツがアメリカを凌駕していくんじゃないかといわれた。ところがアメリカがそこから寄り戻してきている大きなカギは、ITだ。
 
 どうしてアメリカで情報技術革新が先行したのか。中核にあるのが、ITは、軍事技術と連携していることだ。ITというのは、インターネットやコンピュータを初めとして、中核技術は軍事目的で開発された技術が多い。80年代末まで冷戦の時代の50年間、アメリカは累積 200兆ドルという軍事予算を積み上げ、その軍事予算の裾野に巨大な軍事産業を育てた。80年代においてアメリカの産業を議論していた人が必ず使った言葉は「産軍複合体」という言葉だ。ボーイング、マクドネル・ダグラスなど名だたる企業が軍事産業として育ち、それらを総称して産軍複合体というイメージでアメリカの産業構造をとらえていた。

 90年代の初めによくわれわれは「平和の配当(ピース・ディビデンド)」という言葉を使った。いままではヒト・モノ・カネ・技術・情報が軍事という分野に注入されていたけれども、これからは民生、平和産業の分野に使われる時代が来たと、比較的薔薇色の未来論で“平和の配当”と言った。ところが実態としてアメリカの90年代に進行したことは、軍事産業のリストラです。これによって、マクドネル・ダグラスはボーイングに吸収されたとか、ものすごい勢いで軍事産業のリストラが始まった。90年代にクリントン政権下で軍事予算が3分の1もカットされる中で、アメリカの90年代に一体何が進行したか。
 
 それは、軍事に進んでいた優秀な理系技術者がかなりの割合で情報産業や金融産業という、「民間部門」に移ったということだ。
このような流れが、北京政府による、対米ロビー活動を増大せしめ、軍事技術の対中流出につながる。この問題は現在進行形だ。重ねて言うが、シーパワーの支配とは情報すなわちソフトの支配を根幹とする。つまり、優秀な理系技術者が地政学的バランスを大きく変えることができる。大航海時代は火薬や羅針盤や航海術の開発が東西のパワーバランスを大きく変えたように、20世紀において、それはアメリカだった。
軍事技術(核兵器やレーダーやVT信管、与圧キャビン等)で他を圧倒し、第二次大戦に勝利した。日本はこの点を十分理解した上で、経済産業省主導で官民上げて「技術開発」を進め、日本の技術者の流出を防止し、アメリカの技術者をいかにリクルートするかを考える必要がある。下記記事に見られるごとく、経済産業者が外資による企業買収に安全保障の観点から歯止めをかけようとしているのはこういう文脈で理解すべきだ。今後、日本の安全保障の中核はエネルギーと技術を束ねる、経済産業省が担っていくことになるであろう。日本国民はこの事実を熟知し、経済産業省を支援する必要がある。経済産業省は日本の最後の砦だ。
<参考>
------------引用--------------
外資の投資規制拡大 企業買収増加背景に
三角合併にらみ、財界も要望

 経済産業省は26日、外国企業が日本企業に投資する際、政府への事前届け出を義務づける業種や製品の範囲を拡大する方針を正式発表した。炭素繊維や工作機械など軍事転用の可能性がある製品を生産する日本企業への投資を、事前届け出の対象に追加し、海外への技術流出などを防ぐ。技術の進歩で一般向けの汎用(はんよう)品にも軍事転用できる製品が増えたため対象を拡大する。海外投資ファンドによる日本企業買収が相次ぐなど環境が変化したことも、投資規制を強める背景にある。
■制度

 規制の見直し方針は、経産省の研究会が26日、中間報告書案としてまとめた。外国企業を対象とした投資規制の見直しは、1991年以来、16年ぶりとなる。
 届け出制度は、「外国為替及び外国貿易法」(外為法)に基づいている。
 対象は外国企業による投資が行われると、〈1〉国の安全を損なう〈2〉公の秩序の維持を妨げる〈3〉公衆の安全の保護に支障をきたす――などの恐れがある業種だ。現在は、武器、航空機、原子力、宇宙開発、電力・ガスなど20業種が対象だ。
 今回は、これまでのような業種別ではなく、具体的な品目別に対象を決める方針で、炭素繊維や電池、工作機械などが候補となっている。具体的な品目を詰めて7月にも政令を改正し、8月から実施する方針だ。
 対象が上場企業なら株式の10%以上、非上場企業なら1株でも、取得する30日前までに投資の規模や目的などを、財務省や各業種の所管官庁に届け出るよう義務付けている。問題がある場合は、国が投資の変更や中止を勧告、命令できる。
 特に厳格な審査が必要となる航空機、原子力などの業種への外資の投資は、年10件にも満たず、これまで変更や中止の勧告が行われた例はない。対象に汎用品が追加されれば、審査件数は格段に増えそうだ。
------------引用--------------
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経済産業省出身市長の英断
【論説】「中華街構想」潰した仙台市長の英断 斎藤勉 「中華街は長期的な対日浸透工作」・・・産経iza [03/20]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1174370696/
【噴火】「中華街構想」潰した仙台市長の英断 斎藤勉
仙台市の南部、太白区のJR長町駅前の広大な土地に170億円もの巨費を投じて 地上9階・地下1階のチャイナ・タウンを建設し、中華料理店や娯楽施設などを誘致する。 高架線上の東北新幹線からも竜宮城のようなお伽噺的街並みが眺められるため、 「空中中華街」構想と銘打たれた開発計画が浮上したのは2年前の6月だった。中国●江省の投資ファンド「中瑞財団」幹部ら一行が現地視察に訪れ、当時の藤井黎市長も地元商店街もチャイナ・マネーによる景気浮揚計画に「大変な期待」を口にしたという。ところが、翌7月に就任した梅原克彦新市長は昨年2月の定例市議会本会議で一転、構想撤回を宣言する。「計画の内容、規模、景観の面でふさわしくない」との理由だった。「市の協力が不可欠」としていた中瑞財団側も断念せざるをえず、計画は敢えなく空中分解した。

■チャイナ・マネー 梅原市長の英断であった。 中国の経済膨張に伴い、世界と日本の各地に今、チャイナ・タウン建設計画が見え隠れしている。 老舗中華街としては米ニューヨークや横浜が有名だが、現在はロシアのモスクワとサンクトペテルブルクに巨大な中華街が建設中で、欧州や韓国、東南アジアにも出現予定だ。 日本では仙台に中瑞財団が現れる半年前にも、王毅・駐日中国大使が札幌を訪問、高橋はるみ北海道知事や上田文雄市長らに中華街建設構想への支援を要請している。 「今は札幌市としての建設計画はない」(市関係者)というが、中国は過去に塩釜や福岡、下関などにも食指を動かした形跡があるという。
こうした状況下で自治体の首長自らが市の方針として「計画廃棄」を公式に表明したのは 梅原市長が初めてである。 日本各地での中華街建設ー。日本の公安当局が実は今、最も神経を尖らせている中国の長期的な 対日浸透工作の一つだ。 「中華街を中核に地元との『友好』的な組織を設立、人的交流を深め、知らず知らずのうちに 親中派を増やしていく。同時に大陸では『反日』を煽り、日本国内の親中派と呼応させる。 やがてそれが日米離間をも促し、中国が抱き込み易い日本に変質していくことに期待をかけている」
(在京公安筋)

■日米分断工作?
梅原市長は公的な場ではこうした懸念は漏らしてはいない。 しかし、昨年8月26日付け朝日新聞は梅原市長の言動についてこんな分析を示している。 「市長が強調するのは『中国は政府も軍も財閥も一つにまとまっている。中国とつきあうにはリスクを考えないといけない』との認識だ。中国は『日本を極東の片隅に押さえ込み、日米同盟関係を分断する戦略』を持っていると指摘。『それを前提に、政府も自治体も国民もつき合わなければいけない』と主張する。その梅原氏には、中瑞財団が土地を購入する中華街構想は 危うく映った。:言葉の裏に中国への警戒感がのぞく」
梅原市長の中国観は公安筋の分析に照らして極めて説得力に富んでおり、 従って「中国への警戒感」は当然のことだ。 米国では「慰安婦」問題での日本糾弾決議案を推進するマイク・ホンダ下院議員が過去の選挙で 中国当局につながる在米反日団体などから多額の政治献金を受け取っていた事実が産経新聞によって 明らかにされた。「米国における中国の各界への政治的浸透ぶりは南京事件70年の今年、中国の 言い分通りの映画が続々と公開されることでも分かる。中国は米国の世論も『反日』工作の味方に つけているのだ」(公安筋)

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http://www.sankei.co.jp/keizai/kinyu/070526/kny070526001.htm
【円・ドル・人民元】外貨で「知」を買う中国
 統制経済では権力が、市場経済ではカネがものを言う。民間から外貨を吸い上げ、国家に集中させる社会主義市場経済の中国は党と政府が一番そのことを知っている。中国が1兆2000億ドルの外貨準備を使って買い付けるのは米国債やアフリカの油田ばかりではない。米欧の「知的資源」も取り込む。
 中国はこのほど、米大手企業買収ファンド「ブラックストーン」に30億ドルの出資を決めた。ブラックストーンのP・ピーターソン氏はニューヨーク・ウオール街の重鎮で自動車産業など劣勢に立った米大手企業建て直しの戦略家でもある。クライスラー買収を決めた投資ファンドのサーベラス代表で前米財務長官のJ・スノー氏とピーターソン氏はコーポレート・ガバナンス(企業統治)推進の総本山「カンファレンス・ボード」の共同議長である。
 ブラックストーンへの出資は議決権なし、つまり「物言わぬ株主」で4年間は売却しない。中国はピーターソン氏を通じて効率良く、米産業界に「資金面で再生のお手伝いをする」というメッセージを送った。
 ピーターソン氏にはもう一つの顔がある。ワシントンのシンクタンク、「ピーターソン国際経済研究所(IIE)」のオーナー会長である。IIEは1985年9月の「プラザ合意」後、ドル安円高路線を理論面で支えてきた。ことし3月には1ドル=90円、20%以上のドル安が必要とするリポートをまとめた。円を人民元と同時にドルに対して大幅に引き上げる提言で、事実上、人民元と日本円の同時大幅切り上げを求める米議会内の声を後押ししている。
 米財務省のポールソン長官は「円相場は市場実勢で変動している」として円安を容認する一方で、中国当局が介入により管理している人民元については変動幅の拡大を求めている。円安には歯止めがかからないのと対照的に、人民元は小幅ながらも変動幅を拡大し、小刻みに人民元を切り上げてはいるが、議会は満足しない。中国はワシントンの目を人民元からそらし、「安い円」に向けさせたいところだろう。
 中国の外貨準備は一日当たり15億ドル以上の割合で増え続けている。ブラックストーンへの出資額はわずか2日で調達できる。しかも北京の党中央の裁量で思う存分に使えるのだから、機動性に富んでいる。
 中国はスーダン、ナイジェリアなどアフリカ産油国で投資を増やしているが、欧米はこれらの国々の人権抑圧や武力弾圧を問題視し、中国を牽制(けんせい)している。中国はこれにも動じない。
 香港科学技術大学のC・ホルツ教授は最近、米誌「ファーイースタン・エコノミック・レビュー」で「中国専門家はすべて買収されているか?」という論文を発表し、欧米の中国専門家の多くが「中国共産党の歓心を買おうと努めている」と暴露した。中国専門家は党の協力が得られないと情報が入らないという弱みに加え、中国側の積極的な「買収工作」も受けている。中国政府や国有企業は欧州の安全保障専門家や政府関係者に資金を出して北京での国際シンポジウムに招待する。ベルギーやフランスなどの有力シンクタンクには資金支援したり、出資している。
 1980年代後半からのバブル期の日本は、米国との通商摩擦に直面したが、日本企業はニューヨークを象徴するロックフェラービルやハリウッドの大手映画会社を買収するなど、米国民の警戒心をあおった。中国も国営石油会社が米石油大手の「ユノカル」を買収しようとしたが、議会などの猛反発で断念した。その教訓を生かしたのだろう。北京指導部はポールソン財務長官に対して米国債は売らないことを約束し、ドル資産の多様化で協力を求めた。忍び足で歩く。しかし、その達成目標は実にうまく計算されている。(編集委員 田村秀男)
------------引用--------------
------------引用--------------
http://mijikaku.blog67.fc2.com/blog-entry-291.html
米国政界への中国のロビー工作の例としてクリントン政権時の献金問題について少しだけ触れました。
*「慰安婦問題」とチャイナ・ロビー
反響もそれなりにあったようでメールで質問などもいただきましたので、あの問題に関して詳細に載せてみようと思います。
二期続いた米国のクリントン政権ですがクリントン大統領の政治資金には中国政府からの違法献金が流入していました。
この問題は当時、米国議会で大問題になったのですが司法省を握る政権側の捜査妨害、また、折から浮上した大統領のモニカルインスキー嬢との不適切な関係、さらに米国民のクリントン人気もあって
結果、この疑惑は闇に葬られ、うやむやのままに終わってしまいました。
以下、この経緯について当時の産経新聞と読売新聞の報道と
伊藤貫氏の「中国の核が世界を制す」という本を資料にして書いてみます。


1996年、クリントン政権発足時におけるある政治献金が問題となりました。
当時、米国では「ホワイトウォーター疑惑」が話題になっておりクリントン大統領のアーカンソー州知事時代の汚職疑惑が世論の関心をあつめていました。
その捜査の過程で、大統領及び米民主党がインドネシアの財閥から違法な献金を受けていたとの疑惑が浮上し、大統領自身もこれを認めました。
当初、米世論はただのインドネシア企業の違法献金程度の認識でしたが、この問題を取り上げたワシントンポスト紙の取材とFBIによる捜査、さらに米議会の追及が進むにつれ、意外な事実が明らかになっていきます。
それによると1992年の大統領選当時、クリントンと米民主党は
インドネシアの華僑系財閥「リッポー・グループ」から多額の献金を受け取りました。
このリッポ・グループの在米代表であったジョン・ファンは財閥の豊富な資金を使ってクリントンに取り入り、クリントンの大統領当選後はその功績により、商務省の副次官補に抜擢されます。
副次官補という地位は国家機密にアクセスできる権限を持っているため、事前にFBIなどにより身上調査が行われるのですが、ファンに対してはヒラリー夫人の圧力により、身上調査は行われずじまいでした。
ファンは中国本土に生まれ、台湾で育ち、米国に移住後の76年に米国籍を取得しました。インドネシアの財閥リッポ・グループの在米代表となり、92年ごろからクリントンへの献金活動を活発に行うようになります。
リッポ・グループの二代目総帥のジェームズ・リアディは70年代からのアーカンソー州でのビジネスを通じて、クリントン氏と密接な関係にありました。リアディ一族は本拠をインドネシアに置いてますが、みな中国系で中国本土での大規模な経済活動に関与してきました。
97年7月の米議会の公聴会では、CIAのジョン・ディッカーソン氏が
当時、副次官補のファンの求めに応じて37回にわたってアジア関連の極秘情報を閲覧させたことを証言しました。ディッカーソンはファンが商務省の中国担当官であると思っていたとのこと。
しかし、ファンの上司だった、前商務副長官ジェフリー・ガーテンによると、ファンの職掌が管理部門担当であり、中国担当ではないこと、
ファンが何度も中国大使館を訪問したり、中国大使館員からの電話を受けていたとのこと。
この公聴会では、リッポー財閥に詳しい、国際通商専門家のトーマス・ハンプソン氏がリッポー財閥と中国政府のつながりが濃いことを証言しました。
実は、リッポ・グループへの大口出資者に「チャイナ・リソース」という会社がありましたが、ここは中国人民解放軍総参謀部第2部が所有していました。ちなみに総参謀部第2部とは国家安全部と並ぶ中国の諜報機関です。
この総参謀部第2部とリッポ・グループがそれぞれ50%ずつ出資して作ったのが香港チャイナ銀行で、ファンは80年代にこの銀行の副頭取となっています。
ファンは副次官補として1年半あまり働いた後、クリントンの求めに応じて、商務省を辞め、96年の大統領選に向けて民主党の財政副委員長になり、選挙資金の担当係となりました。
結果的に、ファンの民主党及びクリントンへの献金実績は4百万ドル(約4億8千万円)以上にのぼり、そのほとんどが出所の不確かな違法献金と判断され、後日、民主党が3百万ドルを返還しています。

さて、これらの疑惑の噴出に議会では複数の調査会が設置され、
FBIの捜査も熱を帯びていきます。
米マスコミの中ではワシントン・ポスト紙がこの問題の追及に熱心で
かつてウオーターゲート事件の調査報道で活躍した、ベテランのボブ・ウッドワードなどを取材に投入しました。
その中でさらにもう2人の中国系の人物が浮上してきます。
まず一人目はアーカンソー州リトルロックで長年、中華料理店を開き、クリントンの知己だった中国生まれのチャーリー・トリーです。
トリーはクリントンのセクハラ訴訟では63万ドルもの巨額献金を行い、米政界ではその名が知られていました。
ちなみに、この資金は出所が不明という理由で受領が辞退されましたが、トリーはそれと別個にクリントン氏再選のための資金65万ドルを民主党全国大会に寄付して、これまたその後に返却されています。
トリーはクリントン政権発足後、ワシントンにビジネス・コンサルタント事務所を開き、クリントンとのコネを利用して中国の政府や軍の関連企業のために米側との取引を支援する業務を始めました。
1996年2月、トーリーは、ホワイトハウス内で開かれたパーティーに中国政府直属の大企業「中国国際信託投資公司」の会長である、
王軍氏を招待するよう取り計らい、クリントンと面会させました。
実は王は、中国の代表的な軍需産業「中国保利集団公司」会長でもあり、この会社は人民解放軍の直営企業です。
さらに王は、中国の国家副主席だった故王震氏の息子でした。
この三ヶ月後、「保利科学技術公司」は米国へ中国製AK47小銃2千丁を密輸しようして同社の幹部数人が逮捕されています。
2人目はカリフォルニア在住の中国系米人のジョニー・チュンで
大口の献金をクリントに対して行い、2年ほどの間にホワイトハウスを50回以上も訪問しています。
彼は米国内の中国系企業のコンサルタントであり、98年3月に詐欺と脱税で起訴され(おそらく別件逮捕でしょうが)、FBIに対してクリントンへの献金とその背後の中国コネクションについて詳しく供述しました。
その内容は恐るべきもので、
◇96年6月、チュンは中国人民解放軍傘下の企業「中国航天国際公司」の役員で解放軍中佐の女性、劉朝英氏から民主党選挙資金用として約30万ドルの秘密献金を受け取った。
◇劉朝英氏は中国共産党中央委政治局常務委員や中央軍事委副主席などを務めた劉華清氏の娘で、この資金は中国軍情報機関から出たとチュンに告げた。
◇チュンはこの資金のうち約10万ドルを民主党全国委員会に違法献金、見返りに九六年七月、劉朝英氏を米国に招き、クリントンを囲む会合に出席させ、同氏と並んだ写真を撮った。
と、チュンは証言しました。
ここに至って米国世論は騒然となり、米議会はこの疑惑を解明するために独立検査官の任命を求め、クリントン政権は窮地に追い込まれていきます。
しかし、事態はこれだけにとどまらず、一層の進展を見せ始めます。
米国の国家機密である航空宇宙技術が中国に流失し、それにクリントンと中国の政治工作が関わっていたとの疑惑が浮上してきたからです。
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http://release.nikkei.co.jp/detail.cfm?relID=160495&lindID=1
NTT、1000ビット超の特殊な型の合成数に対する素因数分解を達成
暗号方式の安全性検証に有効とされる「素因数分解」において世界記録を更新
~1000ビット超の特殊な型の合成数に対する素因数分解の達成により暗号鍵の安全性検証に貢献!~


 日本電信電話株式会社(以下NTT、本社:東京都千代田区、代表取締役社長:和田紀夫)は、ドイツのボン大学、スイスのスイス連邦工科大学ローザンヌ校(以下、EPFL)との共同研究により、公開鍵暗号(※1)のデファクトスタンダードRSA(※2)暗号の安全性・強度を把握する手段として世界的にチャレンジが展開されている、大きな数の素因数分解実験において、世界で初めて1000ビットを超える特殊な型の合成数に対して、特殊数体篩(ふるい)法(※3)による素因数分解を達成しました。
 このたびの実験結果は、わずかなビット数の差でも桁違いの計算量が必要となる素因数分解問題(※4)において、特殊数体篩法でのこれまでの世界記録(911ビット)を大きく上回り、1000ビットを超える1017ビットの合成数に対する素因数分解を達成するという画期的な世界記録です。
 本実験は、「(2^1039-1)/5080711」という特殊な型をした合成数に対する素因数分解です。分解対象は1017ビットであり、これは一般の合成数を対象とした一般数体篩(ふるい)法(※5)でも約700ビットの難しさに相当すると期待されています。
 このたびの世界記録樹立は、「素因数分解問題の難しさが、安全性の根拠」といわれ、現在では1024ビットの暗号鍵が主流となっているRSA暗号に関し、安全性・強度の有効性をより精密に予測するうえで極めて重要な意味を持つものです。


<研究の背景及び意義>
 インターネットの本格的な普及に伴い、電子商店やインターネット銀行などネットワークを活用した便利なサービスが身近な存在となり、インターネット上における機密情報のやり取りが大幅に増加しています。
 暗号技術は情報セキュリティを確保するためのコア技術です。現在、電子署名(※6)の実現法の1つであるRSA暗号が事実上の標準規格となっており、ほとんどのウエブ閲覧ソフトに組み込まれている暗号通信プロトコルSSL(※7)においても、このRSA暗号が採用されています。
 RSA暗号の安全性が高く評価されているのは、「『素因数分解問題の難しさ』を『安全性の根拠』」としている暗号だからです。つまり、「素因数分解の効率の良い解法はまだ見つかっておらず、大きな数を素因数分解するには、いかなる高性能なコンピュータを使っても莫大な時間がかかる」という数学的な根拠に基づいて設計されているわけです。
 現在の素因数分解技術と計算機能力で、どれくらいの大きさの合成数まで素因数分解が可能であるかを予測することで、暗号解読の可能性を精密に見積もることが可能となり、その結果からRSA暗号鍵長の更新時期を適切に設定し、将来に渡り安全かつ強度な暗号システムの構築に貢献することができます。

<研究の内容> 
(1)分解候補の選定
 NTTの情報流通プラットフォーム研究所(※8)(以下、NTT研究所)により、分解対象に小さな因子がないかどうかを楕円曲線法による分解を試みることにより確認しました。その結果65桁以下因子を見逃している確率は3.4%以下、70桁以下因子を見逃している確率は53.2%以下となりました。確認にはAMD社のOpteron248(※9)を127.5年程度稼動させたものと同程度の計算量を要しました。
 
(2)篩(ふるい)処理
 ボン大が作成した篩プログラムにより行いました。NTT研究所が84.1%、EPFLが8.3%、ボン大が7.6%の計算資源を提供し、Pentium D [3GHz]換算で95年稼動させたものと同程度の計算量を要しました。
 
(3)行列 
 NTT研究所及びEPFLに設置されたそれぞれ110台と36台からなるPCクラスタを並列に2ヶ月強用い計算しました。これにより約7千万×約7千万といった巨大疎行列からなる連立方程式の非自明解を47個得ることができました。
 
(4)平方根
 ボン大のPCクラスタを数時間動かすことにより下記のとおり素因数分解が完了しました。
 (※ 関連資料を参照してください。)

<今後の展望>
 情報セキュリティ産業は、21世紀に大きく成長すると期待されています。NTT研究所は本実験の成果を利用し、現在デファクトであるRSAの安全性を継続的に評価していくとともに、今後も、暗号理論から社会的影響まで幅広い領域におけるセキュリティ研究を推進していきます。


<用語解説>
※1 公開鍵暗号
 1976年にDiffieとHellmanにより提案された概念。実現方式としてはRSA暗号が有名。従来の暗号方式は暗号化と復号に用いられる鍵と呼ばれる情報は同一であり、秘密に保持しておく必要があったが、公開鍵暗号では暗号化に用いる鍵を公開することができ、復号に用いる鍵のみを秘密に保持しておけば十分である。

※2 RSA
 1978年に公表された公開鍵暗号および電子署名方式で、Rivest、Shamir、Adlemanの3人の開発者の名前の頭文字からRSAの名がついた。電子署名方式として現在最も広く使われている。これまでにさまざまな改良が施され、いくつかのものは電子署名法の指針や電子政府推奨暗号リストに含まれている。RSAの安全性は「法」と呼ばれるがパラメータに依存し、大きいほど安全であるが、処理性能は落ちる。現在、法のサイズとしは1024ビットが広く使われている。

※3 特殊数体篩法 
 a^b±1といった形の合成数に有効に働く素因数分解アルゴリズム。1980年代後半にPollardにより原型が示され、Lenstraらにより完成された。その後、一般的な形の合成数でも分解可能となる一般数体篩法に拡張された。

※4 素因数分解問題
 合成数を素数の積に書き下す問題。小さな合成数に対しては、短時間で素因数分解実施可能であるが、大きな数については現実的な時間内に計算を終えることは不可能である。ただし、あまり大きくない素因子を持つ場合は、楕円曲線法によりその素因子を求めることができる。
 RSAの法に使うような大きな2つの素数の積から構成される合成数の素因数分解法としては、数体篩(ふるい)法が用いられる。現在、RSAの法に使われる合成数に対しては一般数体篩法が最も高速である。

※5 一般数体篩法 
 1990年代前半にLenstraらにより完成された素因数分解アルゴリズム。RSAの法に使うような一般的な形の合成数の素因数分解では既知のアルゴリズムで漸近的に最も高速である。2,3,5,7,…と割っていくいわゆる試し割り法の実行時間が指数時間であるのに対し、一般数体篩法は準指数時間で完了すると評価されている。しかし現在知られている実行時間の評価は平均の上限であるので、具体的な数に対する実際の実行時間を精度よく見積もるためには計算機実験の積み重ねが必要である。

※6 電子署名 
 ハンコや署名の機能を電子的に実現する技術。わが国では2001年に、いわゆる電子署名法が制定され、法的効力を持たせることができる。

※7 SSL(Secure Socket Layer)
 ウエブ閲覧時などの安全な暗号通信を実現するための技術。現在使われている多くのウエブ閲覧ソフトに組み込まれている。SSLを実現するための暗号要素技術として、RSA暗号も使われている。

※8 情報流通プラットフォーム研究所( http://www.ntt.co.jp/islab/org/pf.html ) 
 情報流通プラットフォーム研究所では、お客様に安心・安全・便利にサービスをご利用頂くため、世界トップクラスの暗号技術をはじめ、セキュリティ、FMC、インターネット・IP通信、ならびにコンピュータアーキテクチャ等の情報処理基盤技術をベースにブロードバンド&ユビキタス時代のプラットフォームの研究開発を推進しています。

※9 Opteron248 
 AMD社が開発した64ビットアーキテクチャAMD64に基づくCPU。Opteron248は動作周波数2.2GHzであるOpteronファミリの一員である。Intel社もAMD64互換アーキテクチャとしてEM64Tを発表し、Pentium DやCore2 DuoなどのCPUを発表している。
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以上
2007/05/27(日) 11:31 | URL | 孔明 #-[ 編集]
江田島先生、ハンニバルの戦術の型からいえば、その戦略は「実行できません」

まず、ハンニバルが天才なのは敵を意のままに操った事です。(戦術レベルで)

もっといえば、ここにこう手を打てば相手はこう打つ、というのを戦術レベルではすばらしく高く読んでたわけですが・・・(政治レベルで恐ろしく低かったのが彼の弱点ですが。このあたりは・・・こういってはなんですが愛国者の限界かと。自分が国を愛しているのだから他者も愛するべき、同じ結論に達してしかるべきだと考えますから。)

船とか城とか「戦術レベルで動かない物、動きが鈍いもの、動揺しないもの」足と脳みそがついてないモノには至って弱いのです。

動揺してトンチキな行動をとってくれませんから。

ハンニバルの兵法は「突飛な行動に相手が驚いてさらした弱点を突く」のが定型なのです。

そう考えると、彼は「自分のできない事」を理解していたと思います。

ある意味戦略なんですが、戦術レベルの戦略というか・・・麻雀漫画アカギの主人公アカギタイプなんですよね。(福本伸行の天・アカギ読んだ事ありますか?)

つまり、ハンニバルは「艦隊戦」に勝てませんし、戦線構築型の戦略も苦手です。

正面決戦のザマの戦いもお約束的な運用をして綺麗にやられてますし。

それ以降も対処方法が見つけられてしまっていてもう勝てません。

簡単なんですよ。
「何も考えずにハンニバルぶん殴れば勝てるんです」

敵を動かし隙を突く、のが基本定型なので・・・本来は軍師に分類される人なんだと思うです。

軍師は大雑把にわけて2タイプあると思います。

一つは機をうまく読む「投機型」(ハンニバルや韓信、や張良司馬仲達などもこっちでしょう。竹中半兵衛もかも。)

もう一つは強力なシステムを作り上げ、正面からの戦闘力を高める「システム構築型」(諸葛孔明や黒田如水、ショウカはこっちかと。)

で、ハンニバルは司馬仲達とかの「投機型」の軍師だと。(諸葛孔明はシステム構築型の軍師だと思いますが。)

つまりは、「その戦略を実行する戦術能力がありません」

戦術が戦略を凌駕する事はありえませんが、戦術がなければ戦略は成立しないのです。

戦術がもたらした大局的逆転勝利というのは「敵の戦略を戦術レベルで不成立にさせているうちに自分の戦略を成立させた」場合のみですし。

そう考えると黒田如水の天下取りはおそらくただの「風流」です。

システム構築型の如水が天下を狙っていたにしては根回しが不足しているように思えますし、逆に狙っていないにしてはやりすぎです。

300の兵からスタートして一気に拡大などする必要がありません。

守るだけならばもっと堅実に渡り歩いたと思います。

つまり、石田三成からの使者を得たときに「天下をネタに自分試し」してみたんじゃないかと思ってます。

だから、機を逃した(後、長政の功績と性向をみて)後は長政優先でマイホームパパに戻ったんだろうと。

割と充実してたんじゃないですかね。

後、日本人がかんがえる基本的な「軍師」は投機型です。

日本人は民族そのものがシステム構築大好きなのでそちらタイプの軍師はあまりいらないのです。(今のシステム崩壊した時期にはいりますけどね。)

この辺2・3流の投機型軍師が台頭する素地があるのでかなり危ないです。

・・・というか、小泉・安倍支持ってそういうことだと思うんですけどね。

日本というシステムで作り上げたモノの投資先がわからず投機家の助言を求めているのが今の日本なのかもしれません。

>大澤様

とりあえず、私が考えるランドパワーとシーパワーの理想的な関係は「ランドパワーの用心棒たるシーパワー」です。

多分、これが一番健全な関係を築けると。

一般人はランドパワー、首脳部はシーパワーと。

もっといえば、日本国の定義を「日本民族を象徴する国家」ではなく「日本という地の用心棒」にしてしまうわけです。

そこに国際金融資本が入ってくれるならば、心強い限りですね。

まあ、あまり他の人に受け入れられる話じゃないのですけども。

ちょっとイメージが悪くなりすぎました。

敷衍していけば色々選択肢が広がると思うのですが。

>江田島先生に質問

台湾に日本がODAをいれようと考える場合、「アメリカの妨害」ははいりますか?

はいるとしたらそれは対抗可能でしょうか?
2007/05/27(日) 13:01 | URL | 霧 #mQop/nM.[ 編集]
誤解があるようなので補足しますが私は「ハンニバル」がローま海軍を撃滅できたといっているのではありません。カルタゴが自己の長所とローマの短所を理解できていれば、ローマ海軍を引き釣りだし撃滅するという手段をとるべきだったといってるのです。そういう海軍提督がいればの話ですが、いなかったんでしょうね。だからハンニバルに賭けざるを得なかった。

台湾ODAについては、政府が直接やると、米中政府に横槍入れられるのですが、民間を通して巧妙にやれば問題ないでしょう。交流協会もあるし
2007/05/27(日) 16:36 | URL | 孔明 #-[ 編集]
ありがとうございます。
ハンニバルの話だったので主語を間違えて読んでしまいました。

お詫び申し上げます。
質問回答ありがとうございました。

2007/05/27(日) 21:08 | URL | 霧 #mQop/nM.[ 編集]
世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL156
                          
                               江田島孔明
松岡農林水産大臣について、謹んで哀悼の意を表明する。
国内政治を論じるのは本意ではないのだが、戦後初の現職閣僚自殺という異常事態を受けて、今回は、松岡農林水産大臣の自殺の背景と影響について考えてみたい。
まず、今日の事態を考える上で、55年体制下の自民党という政党の歴史を紐解いてみたい。
 第2次世界大戦後の日本の政党システムの形成をみると、まず、1955年に左派社会党と右派社会党が統一されたのに対抗して、保守政党の自由党と民主党が合併して自由民主党(自民党)が結成された。
 この保守合同以降、自民党は1993年7月の衆院選挙で過半数が割るまで38年間、一貫して政権を担当してきた。この自民党が継続して政権を担当した政党システムを「55年体制」と呼ぶ。
1955年に成立した戦後日本の政党政治の枠組みのこと。その年に、左右に分裂していた社会党が統一し、次いで自由党と日本民主党との間で対立していた保守も合同することによって、自由民主党が発足した。自社二大政党制の実現を予想する向きもあったが、実際は社会党は自民党の二分の一軽度以上の勢力にはならなかったことから1・1/2政党制、あるいは自民党が一貰して優位を占めていたことから一党優位政党制とも呼ばれたりする。この体制は1993年の非自民連立政権、1994年の自社さきがけ連立政権の登場を経て崩壊したとされている。
もともと自民党の成立(保守合同の実現)は社会党の統一に刺激されたものだが、そもそも左派主導のもとで社会党の統一が実現したのは、米軍への基地提供(しだいに基地拡張)や再軍備に対する反対運動のなかで左派社会党が総選挙ごとに議席をのばし,保守政党が統一されていない情勢のもと、右派と合同すれば社会党が内閣を担当できる可能性が高まってきたためだ。

それに対し、社会党政権成立への危機意識を高めた財界の強い要請を背景に、吉田茂の政界引退を契機として自由党と日本民主党の合同が実現するそれが自由民主党の結成だ。
こうして自由民主党が安定多数を確保して内閣を維持し、社会党など野党が3分の1の議席をしめて憲法改正を阻止するという政界の構造が形成された。1960年までは自民党と社会党のあいだで激しい対立が国会で繰り返され、自民党政権が安定していたとは必ずしもいえない状態が続いた。(議会では強行採決が何度も繰り返されている)。
 特に岸信介内閣の末期には、岸内閣が日米新安保条約の批准を衆議院で強行採決したことに対しては、自民党内部からも反発がでてきて安保闘争をさらに高揚させている。必ずしも自民党政権が安定していたとは言い切れない状況があった。
しかし、岸内閣が新安保条約の自然成立後に総辞職して池田勇人内閣が成立し、「寛容と忍耐」「低姿勢」を掲げて社会党など野党との対話姿勢へと転換したことから、議会における自民・社会両党の激しい対立は影をひそめていく。
そして争点も政治的課題から、池田内閣の国民所得倍増計画が想定する(予想)経済成長率をめぐる対立へとズレていく。
そして岩戸景気のもと、池田内閣が想定した以上の経済成長を実現し、さらに佐藤栄作内閣期にいざなぎ景気が長期にわたって訪れるなか、自民党政権は安定期を迎えることになった。
もっとも、1960年代末から1970年代にかけて経済成長の弊害(公害・過密などの都市問題)が政治問題化してくると、都市圏を中心に社会党・共産党系(いわゆる革新系)の地方首長が登場し、さらに国会でも(多党化をともないながら)保革伯仲の時代が訪れた。ロッキード事件という田中前首相の汚職事件の影響も大きいが-。
 とはいえ、1980年代になり対米輸出の激増などを背景として低成長時代を脱却し、経済大国への道を歩み始めると、再び自民党優位の時代が復活した。

こうして五五年体制は多党化現象を伴いながらも小沢一郎の脱党に伴う新政党結成から非自民連立細川政権樹立の1990年代初めまで続くことになった。
問題は、この55年体制による自民党政権が、田中角栄の登場をもって、大きく変質した事だ。
田中は、官僚出身ではなく、従来の観点から、日本の主流ではなかった。そして、非主流として、本来は裏方の仕事に従事しているべき所を、佐藤栄作の後継を福田赳夫と争い、勝利してしまったのだ。
ここで、福田赳夫の敗北は、日本の正当な支配者である「官僚支配」の終わりの始まりを象徴する出来事だ。官僚のひとつの習性として、上意下達がある。すべて上司の指示で行動し、自分の意志での行動ができない。宮沢喜一も早くから総理候補として頭角を現しながらも、みずから闘って政権をもぎ取るという姿勢を見せず、そのため中曽根や竹下、海部といった後輩に先を越された。ようやく金丸の指示で総理の座に着いたときには、自民党政権はすっかり腐りきっていて、手腕を発揮する術もなかった。また個人としては土地公有など面白いビジョンを持っていながら、それを実行するためには何の努力もしなかった。すべて、「私の能力を求められたらやります」というスタンスだった。総理時代もこれで通し、口癖は、「私には関係ありませんが」だった。

 福田赳夫もこの癖があり、かれは佐藤栄作の禅譲を信じすぎた。総理の佐藤が後継は福田といえば、自民党で文句を言う人間はいないと確信していたのである。官僚なら上司の人事権が絶対なのだろうが、政界はそうではない。党人の田中角栄がめきめき力をつけ、総裁選投票に持ち込んで福田を圧倒した。佐藤の思し召しなど役に立たなかった。福田が総理になるのは結局、田中、三木の党人総理のあと、ようやく闘う姿勢を見せた「三木おろし」の闘争の後である。
この点について、昭和47年7月5日の自民党総裁選は「角福戦争」と呼ばれ、戦後日本の政治史に残る大激戦になった。どうしてそうなったのかというと、佐藤首相が自分の派閥の実力者であった田中角栄でなく、実兄である岸の後継者の福田を推したからである。
そして福田の次は中曽根という密約までして、田中を自民党総裁・首相の座から遠ざけようとした。

 これに反発して、田中は佐藤から独立して田中派を作り、総裁選に臨んだ。さらに中曽根が田中につくというハプニングがあって、田中は福田陣営に逆転して勝利した。総裁選の後、佐藤首相は演壇で田中の会釈にも答えず、首相官邸の庭で開かれた新総裁祝賀パーティにも顔を見せなかったという。
つまり、佐藤栄作から福田赳夫への禅譲が成立していたら、その後も官僚支配は継続した可能性が高い。しかし、権力の正当性は一旦傷がつくと修復不能なのも、歴史が証明している。
田中角栄以降、本来は裏方の国体族が自民党を牛耳ることになり、結果として汚職が絶えない事となった。何故なら、贈賄や談合は国体政治や選挙のための必要なコストだからだ。官僚出身の岸信介はこのような裏方を「濾過器」と呼んでいた。
そして、本来は「裏方」が行うべきところが、田中角栄以降、自民党の「本来業務」と化してしまったのだ。ここに、自民党が「保守政党から利権政党」への変質があったということができる。ある種のクーデターといってもいい。
ここから自民党は、ある種の戦国時代に突入してくる。すなわち、政権は「禅譲されるものではなく、戦って奪うもの」となった。ホッブスの言う「万人の万人に対する闘争」が始まったと言うことだ。
日本の戦国時代にたとえてみれば、官僚は室町幕府が任命した守護であり、本来はその地域の正当な支配者だ。党人政治家は守護に使える地侍のようなもので、統治の正当性はない。しかし、下克上により、斉藤道三や織田信秀のように守護を追い出し、実権を握った。「下克上」とは、下の者が上の者に打ち勝って権力を手中にすることだ。南北朝時代から戦国時代、農民が領主に反抗して一揆として蜂起し、また、家臣が主家を滅ぼして守護大名や戦国大名になっていった乱世の社会風潮をいう。
この状況が田中角栄以降、現在に至るまで起きていることだ。
つまるところ、権力の承継が実力でなされるか、あるいは、禅譲によって行われるかの違いが戦国時代と平和な時代を分かつ分水嶺となる。
政治的に見ると、日本の戦後を安定させてきたのは、圧倒的な中間層であるが、現在、その中間層が破壊されつつあり、二極化が進行している。このような状況で内政が混乱し戦国時代ばりの権力闘争が行われると、最終的には左右の勢力が突出し、武力衝突に発展するおそれがある事だ。
ここで問題は、戦国時代の収束には、強力な独裁者が必要になるということだ。これは、ヨーロッパで言えば、ナポレオンやヒトラーが出て初めてフランスやドイツが統一されたという事と同じだ。
Vol67で述べたように、日本国が採用している議会制民主主義とは、「選挙民の理性」を条件として成立するものだ。理性を失い、暴力やテロを容認すれば、それは容易に独裁に道を開くものである事は世界の歴史が証明している。
民主主義とは天から与えられた当然の権利ではなく、常にそのような脆さを秘めた物であることを理解した上で、維持していかなくてはならない。「権利の上に眠るものはこれを保護せず」という法格言があるが、読者諸兄におかれてはこの点を熟慮の上、対応を吟味されたい。さもなくば、昭和十年代の世相から、再度やり直すことになろう。あの頃もテロが頻発している。
ホッブズが「万人の万人に対する闘争」と述べたのは法制度の必要性を説いているのではなかったか。

①人間とは自己中心的な存在で、自分の欲望をかなえるためなら手段を選ばない(自然状態)。
②そのため各人が自分だけの欲望をかなえようとして他の人を押しのけても構わないと考え、自分の欲望を満たすためには人を押しのけることもいとわなくなる(万人の万人に対する闘争)
③そうすると社会全体としては好ましくない方向へ進む
④そんな人間の行動に歯止めをかけるには法律というものが必要である。
この様な観点から、理性のタガが外れ、政治的なテロや暗殺が頻発すれば、それは、ホッブスの言う「自然状態」すなわち、不断の闘争と内乱のフェーズに入ったと言うことだ。まさに、民主主義の自殺であろう。
現職閣僚の自殺はこの様に考えれば、決してあっては成らない事だ。まさしく、日本は一線を越えてしまったということだろう。
松岡大臣自殺の背景に何があったのか、最終的には司直の解明を待つほかはないが、伝え聞くところによれば、緑資源にからむ談合につき、検察が捜査を始めた事がインパクトを与えたようだ。事は「ナントカ還元水」のレベルではない。農相が命を賭けてまで守ろうとしたものは、「戦後体制そのもの」ではなかったかと推察される。
そして、現在、この「戦後体制」そのものが大きく揺らいでいる。近代に限っても、幕末かそれ以上の変化の前触れではなかろうか。
なお、日本における戦国時代を収束せしめた徳川家康と昭和天皇はどちらも、統治の基本に方や嫡出子(長男)方や東大法学部を置き、下克上を許さなかった。これが安定政権を生んだ統治の根幹だ。そして、このルールが崩れた時、戦国乱世が始まった。
年金と自殺で政権支持率が急落した安倍政権としては、このまま参院選を戦えば、惨敗は必至であろう。参院惨敗を防ぐ唯一の手段は野党の準備が整っていないうちに衆参ダブル選挙にして、野党の力を衆参に分裂させ、各個撃破する事だけだ。それには、小泉郵政解散と同じような、安倍劇場を演出する必要がある。起死回生の一打はあるのか、それとも、このまま野垂れ死にするのか。
いずれにせよ、政界再編の引き金になる事は間違いない。
第2代将軍・徳川秀忠と淀君の妹・江与(えよ、父・浅井長政、母・織田信長の妹お市)との間に最初男の子(長丸)が生まれたが、3年後に竹千代が生まれると長丸が亡くなってしまったんだ。だから両親としては竹千代に愛情を注ぐことができなく乳母としてお福をつけた。

 竹千代が生まれた2年後に国松が生まれると、国松が長丸の生まれ変わりのように感じて愛情は国松に集中した。江戸城では何かと利発な国松が大切にされ、竹千代は二の次にされていたので、お福はこのままでは世継は国松になってしまうと危機感を覚え、すでに駿府城に隠居していた徳川家康に直訴に行った。
 お福の話を聞いた徳川家康は直ちに江戸城へ。突然の大御所(おおごしょ、家康のこと)の来城に秀忠は大慌て。「孫の顔が見たくなってのう」の家康の言葉に、竹千代と国松が呼ばれ、家康は竹千代に「こちらに来なさい」と言って呼び寄せ隣りに座らせた。すると国松も一緒に傍に寄ろうとするが、「長幼(ちょうよう)の儀礼をわきまえないとは何事か。竹千代殿は兄、世継ぎとなる身、国松殿は弟、臣下(しんか)となる身であろう。同列に並ぶことは許さぬ。」さらに念を押すかのように「ほんに竹千代殿はよい将軍になられるであろうのう。」この家康の鶴の一声で、次期将軍は竹千代と決定した。
<参考>
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2007060202020885.html
緑資源発注事業 『松岡前農相が予算付け』 熊本の談合組織
2007年6月2日 朝刊
 独立行政法人「緑資源機構」による熊本県の大型事業をめぐる談合疑惑で、二〇〇四年に開かれた熊本県阿蘇地域の談合組織の発会式で、松岡利勝前農相(62)=自殺=の有力後援者の建設業者が「緑資源の事業は松岡先生が予算を付けたのだから、先生に返さなければ」と支援を呼びかけていたことが分かった。メンバーの六割は松岡氏側に計約千八百万円を献金しており、東京地検特捜部は、この業者を中心に、松岡氏への支援を条件に談合を繰り返したとみて、調べを進めている。 
 内部資料や関係者によると、この談合組織は「阿蘇北部地区中山間事業安全推進協議会」(推進協)。熊本県小国町などの「阿蘇小国郷区域」(約五千七百ヘクタール)で、農地と森林を一体的に整備する大型事業をめぐり、農林道建設や区画整理などの入札で談合を繰り返した疑惑が浮上している。
 推進協は〇四年四月に地元の三十七社が参加して発足。松岡氏の有力後援者の建設業者(阿蘇市)が会長に就任した。機構からの受注高に応じて会員業者から会費を徴収していた。
 推進協の会員企業のうち二十三社は一昨年までの三年間に、松岡氏の資金管理団体と松岡氏が代表の自民党支部に献金。うち十四社は〇三-〇六年度、機構が発注する農林道や区画整理の工事など三十件(約二十二億二千四百万円)を落札していた。
 献金額が最も多かったのは、会長となった阿蘇市の建設業者で計四百十六万円。全体の二割強を占めた。この業者は農林道工事と区画整理の四件(約四億五千万円)を落札。落札額も推進協の中でトップだった。
 次いで献金額が多かったのは阿蘇市の別の建設業者で計二百八万円。農林道工事など四件(約三億三百万円)を落札し、落札額は三番目だった。
 推進協の会長会社の社長は「談合はしていない。松岡先生は地元だから最初の選挙から応援していた」と話している。


<参考>
http://npslq9-web.hp.infoseek.co.jp/sls067.html
◯ 世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL67
 江田島孔明

 今回は、小泉首相の政治手法が独裁的だとの声があるが、その点について、考察してみる。
 まず、戦後の日本の国家体制は、国民主権と民主主義を基礎とするといわれている。この、民主主義というのは、独裁を否定するものだろうか。
 実は、民主主義とは、欧米の歴史の中で育まれた政治制度であり、その歴史をみると、民主主義は「独裁」を許容しているのだ。これは、カエサルやロベスピエールやナポレオンそして、ヒトラーを見れば分かるだろう。
 そして、何よりも、アメリカの大統領などは、「民主的に選ばれた独裁者」というべき存在だ。そして、ここが重要な点だが、民主主義が許容する独裁とは、「時間的な制限」がある場合にのみ正当化されるという点だ。アメリカの大統領が3選を禁止しているのもこのためであり、終身の独裁者となったカエサルやロベスピエールやナポレオンそして、ヒトラーが全て悲惨な最期を遂げていることもこの観点から説明できる。

 日本の場合はどうか。なるほど日本国憲法のどこを読んでも、日本に終身の独裁者が生まれる余地は無いように見える。しかし、私が見るところ、小選挙区比例代表並立制度が導入された時点で、今回の小泉劇場型選挙のやり方は、規定路線であったと思うし、かっての中選挙区時代の派閥中心の選挙のやり方を忘れられない選挙民は非情だとか、刺客とかいうわけだ。
 しかし、あえて言えば、小泉首相は、今回、初めて、小選挙区の政党中心の選挙をやったといえる。そして、ここからが重要だが、小選挙区で公認権を握った党の執行部はかってないほどの権力をもつわけで、この制度を利用すれば、比例代表選出議員などは、完全に執行部の意思に従うし、小選挙区議員も執行部に逆らっては、当選できないことが証明され、「執行部独裁」がはっきりしてきた。
 そして、ここからが本当に重要な点だが、このように強力な権限を握った小泉執行部が選挙で勝利した場合、小泉首相は憲法上、任期に制限がないため、終身の総理大臣になることも可能だ。党内の反対派を一掃し、その上、終身の任期となると、これは、まさに、ナポレオンやヒトラーに匹敵する。
 そして、仮に今回の選挙で自公が敗れた(意図する過半数の議席は取れなかったものの、何とか総理大臣になった)場合、小泉首相が、本気で終身の総理大臣を目指すなら、自分の気に入った衆議院の構成になるまで、永遠に解散を続けることすら、憲法上、可能なのだ。
 かっての三木や海部は派閥の均衡にのっていたため、このような解散ができなかったのだが、小泉首相には、そのような派閥による均衡や反対は一切ない。すなわち、首相の憲法上の解散権には一切の制限がない、ということも重要だ。
 私には、史上、最も民主的といわれたワイマール下で、ナチスによる独裁を生んだ1930年代のドイツと、今の日本が重なって見える。ヒトラーは、1933年の総選挙で大博打を打ち、総投票数の43.9%・288議席という圧倒的多数を獲得した。
 この選挙では、ナチスは豊富な資金を用いて大々的な宣伝を行う一方で、暴力で反対党の選挙運動を妨害するなど未曾有のテロと脅迫を行った。
 小泉首相がヒトラーになるのかどうか、私にはなんとも言いがたいが、両者とも独身で、演説が絶叫口調、かつ、どう考えても首相になれるような立場になかったにもかかわらず、国民的人気に支えられている点や、郵政に代表される、争点の単純化や、ワンフレーズポリティックスなどに共通項がある。
 中選挙区を金がかかり、腐敗の温床として排して導入した小選挙区比例代表並立制により、宗教団体を唯一の支持勢力とする独裁が完成するかどうか、9.11の選挙の結果を非常な興味をもって見ている。独裁は汚職は少ないだろうが、最悪の結果に容易につながる事は歴史が証明している。そして、それが完成された後に後悔しても、後のまつりだ。

<参考>
 宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その知的水準は、宣伝が目ざすべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。
 (中略)
 宣伝になにか学術的教授の多様性を与えようとすることは、誤りである。大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい。この事実からすべて効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、これをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人まで思いうかべることができるように、継続的に行わなければならない。人々がこの原則を犠牲にして、あれもこれもとりいれようとするやいなや、効果は散漫になる。 以上、ヒトラー『わが闘争』より

<参考>
 ナチスの唱える現状打破、特にヴェルサイユ体制破棄の主張は、ドイツ人の心をとらえた。ナチスは巧みな宣伝によって、従来の政党に失望した中産階級の支持を得、1930年9月の選挙では総投票数の18.3%を獲得し、議席数を12から一挙に107議席に伸ばし、社会民主党(143議席)に次ぐ第2党に躍進した。その一方で、この選挙では労働者に支持された共産党も54(1928)から77へと議席数を増加させた。
 共産党の進出を恐れた資本家(特に金融資本家と重工業資本家)とユンカー(大地主)はナチス支持に傾き、ナチスに財政援助を行った。さらに軍部もナチスを支持したので、1932年7月の選挙ではナチスは総投票数の37.4%・230議席を獲得し、ついに第1党となった。ヒトラーは入閣を求められたが、組閣を求めてこれを拒絶した(1932.8)。
 1932年11月の選挙でも、ナチスは第1党であったが196と議席を減らし、一方共産党は100議席(1932年7月選挙では89議席)と議席をさらに増やした。
 共産党の進出に脅威を感じた資本家やユンカーは、ますますナチス支持を強め、内閣を総辞職に追い込んだので、ヒンデンブルク大統領はヒトラーに組閣を許し、1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が成立した。
 しかし、この時のヒトラー内閣は連立内閣で過半数に達してなかったので、ヒトラーはただちに議会を解散し、1933年3月の選挙では総投票数の43.9%・288議席という圧倒的多数を獲得した。
 この選挙では、ナチスは豊富な資金を用いて大々的な宣伝を行う一方で、暴力で反対党の選挙運動を妨害するなど未曾有のテロと脅迫を行った。
 特に1932年2月27日夜、国会議事堂放火事件が起こると、放火犯人として前オランダ共産党員のルッベらを逮捕し、これを共産党の陰謀として共産党を弾圧した。この事件については不明な点も多いが、ゲーリングらナチス首脳が計画した放火説が有力である。
 ナチスは国会議事堂放火事件の翌日、緊急令を発し、憲法が保障する言論・出版の自由などの基本権を停止し、また共産党を非合法化して数千人の共産党員を逮捕した。
 こうして3月5日の選挙では288議席を獲得した。しかし、与党の国家人民党の52議席を加えても3分の2(憲法改正に必要な数)に達しなかったので、共産党の81名の当選を無効とし、1933年3月24日には全権委任法(授権法)を成立させた。
 全権委任法は、以後4年間国会や大統領の承認なしに政府の立法権を認めるという内容で、これによってヒトラーの独裁体制が確立された。
 独裁権を握ったヒトラーは、労働組合を禁止し(1933.5)、同年7月までにはナチス以外の全政党を解散させ、ナチスの一党独裁体制を確立した。
 ヒトラーは、1934年8月にヒンデンブルク大統領が亡くなると、総統(フューラー)に就任し、大統領・首相・党首の全権を握り、名実ともに独裁者となった
 「市民などに構っているひまはない」「戦時に市民など存在しない」「わが国民が試練を負けても私は涙を流さない。それに値しない。彼らが私を選んだ運命だ。自業自得だろう」===敗戦が決定的となった1945年4月、ソ連軍の砲声が響くベルリンの首相官邸地下要塞(ようさい)では、側近たちがヒトラーの56歳の誕生日を祝っていた。側近がベルリンからの退避を勧めた際、「首都を前線にして戦う」と応じないヒトラーに、さらに市民の避難を進言した時、側近の軍需大臣・シュペーアら軍幹部に言い放った言葉。 以上
 (江田島孔明、Vol.67完)


(注) 目次の頁へ戻るには、左上の「戻る」を押して(クリックして)下さい。

◯ 世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL68
 江田島孔明

 今回は、総選挙の結果についての考察をしたい。
 まず、私が前号で予想したとおり、自民圧勝という結果に終わったのは、いくつか理由があると考える。民主党が自民の分裂を願って郵政民営化法案に対案をださなかったことが、国民の目から見て、「逃げ」に写ったことも理由のひとつだろう。
 しかし、根本的な理由は、小泉首相のとった、「反対派に対する刺客」に見られる、「コロシアム型選挙に国民が熱狂」したことだろう。すなわち反対派のリンチ(粛正)に対して国民が興奮を覚えたということだ。これは、議会制の歴史を古代ローマに遡って考えて見れば、容易に理解できる。
 ローマ帝国が国民を統治した道具は「パンとサーカス」だった。この二つを上手に使えば、民衆の不満をはぐらかすことが出来る。奴隷であっても(自由はないけど)食べられる。サーカスの出し物は、「剣闘士たちの命を懸けた戦い」と「戦車競馬」。市民の好戦的な雰囲気を煽り、それが皇帝の支持に繋がった。
 民衆はパンに群がり、サーカスにウツツを抜かし、堕落した。共和主義的な国家意識は崩れ、道理は忘れられた。活力を失ったローマ帝国は内部から崩壊する。“パンとサーカス”は繁栄と退廃の象徴だった。
 フランス革命や20世紀のドイツにおいても、「反対派の粛清」を「改革」という美名のもと推し進め、民衆は狂喜した。

 民主制や議会制度とは、「民衆の理性」を前提として、初めて機能する。民衆が理性を失い、血の生贄に興奮し、パン(生活)とサーカス(生贄)を求めるようになると、それは容易に「衆愚」から、「最悪の独裁」に繋がることは歴史が証明している。民主制度とは、そのような脆さや危険性を兼ね備えているのだ。

 このような側面をもつ「民主政治」は、プラトンやアリストテレスによって「悪政」と評価された。2400年前、プラトンが理想郷を夢見たのは、それほど現実が疲弊していたからだ。
 祖国アテネは、古代直接民主政治のピークだった「ペリクレス時代」をちょうど終えようとしていた。ペリクレスが病死し、衆愚政治と呼ばれる政治的混沌が訪れた。紀元前404年のペロポネソス戦争でスパルタに降伏した。5年後、師のソクラテスが愚かな謀略に毒杯を仰いだ。
 プラトンの名著「国家(Politeia)」は、こうした祖国の没落を見守りながら出した理想的代案(イデア)だ。 「ポリテイア」とは、「ポリス(Polis・ギリシャ都市国家)の理想的姿」という意味である。
 理想的モデルは「哲人政治」だ。プラトンは、人間と都市国家を3つのグループに分類した。理性が優れた人間は統治階級の哲学者になり、意志が卓越した戦士は軍隊を構成し、欲情しかない一般人は生産階級にならなければならない。
 知恵が優れた子供は幼いころから別途の英才教育を受ける。最初は神話を学んで育ち、音楽と体育、そして数学と天文学を習う。その中で選抜された優秀グループが弁証論を学んで哲学を研究し、50歳を越えてから順番制で統治する。彼らは私利私欲に陥らないため財産と家族までも共有する。エリートは「選抜された者」だ。
 想像可能なエリート主義政治哲学の極限形態である。本来、人間は生まれながらにして資質が異なる。プラトンは劣等な者が支配する社会では、正義が具現されないと判断した。調和した社会、最大多数の幸福のためには、最も優れた者が統治してこそ適切である。実際にスパルタはエリート主義国家だった。病弱に生まれた子供は捨てられた。7歳から集団生活をして軍事教育を受け、還暦になるまで現役軍人として服務する。その少数精鋭エリート軍事集団がアテネを滅亡させた。
 しかし、現代ではなぜ民主主義制度は最良の政治形態なのだろうか。それは絶対主義を打倒したJ.ロックやJ.J.ルソーによる近代民主主義思想によるものである。
 しかしフランス革命の挫折の後、保守主義体制が生まれたため、19世紀になると人々は再び民主主義を退けてしまった。そして、民主主義は海を渡り伝統的制度がなかったアメリカで発達し、民主政治が花開いた。アメリカは民主主義スローガンに掲げて次々と戦争で勝利を揚げると、民主主義思想は一斉に全世界を駆け巡り勝利者のシンボルとして浸透していった。
 もともとアメリカは多民族国家だったため自由主義思想が根付いていた。こうして、アメリカによって「自由主義思想」と「民主主義思想」が共存する関係が認められるようになった。
 現代の民主制とは、国民が選んだ代表者により政治が行われる「間接的民主制」である。これは古代の民主政治との決定的な差である。古代は小さな国家が多かったので、市民が直接的に政治に参加でき、「リーダシップや大衆の無関心」などは存在しなかった。政治を国民自ら動かせるのであるから当然のことである。
 それに比べ、現代は一国家の規模が大きく人口も多いので、もはや直接民主制は不可能であり、自分たちの代表者を送り出すことしかできなくなった。こうして、19世紀の国家は、代議制民主主義、つまり「間接民主制」に基づく議会政治が展開されるようになった。

 そして、この様な民主主義(間接民主制)は、「独裁と表裏」の関係にあることを前号で述べた。アメリカは、この点を熟知しており、憲法で大統領の3選禁止と、「議会=立法府」と「行政府」の明確な分離を担保している。
 「議院内閣制」をとる日本では、このような担保が全くなく、議会の多数派が首相を選出し、大臣(行政府の長)の大部分を国会議員(立法府)から指名するため、両者の明確な分離はないことになる。
 すなわち、国会の多数派が独裁者に支配されたら、立法と行政の2権を、特に首相は憲法上の任期なしに、支配できるのだ。それが、今回の小泉政権で達成されたということ。
 このことが何を意味しているか、保守派は分かっているのか。つまり、小泉首相、もしくはその後継者は事実上、「何でも可能」だということだ。人権法案に反対していたいわゆる保守派が、多数刺客を送られ落選したことを見ても分かるが、確信犯的親中派が小泉首相の後継者になった場合のことを想像してもらいたい。憲法はこのような独裁者の出現を抑止するために様々なチェック機能をもっていたのだが、それすらも無に帰す効果がある。

 思うに、人間の生き方とくに政治のあり方について老子思想は「謙虚」を強調する。60章には『大国を治むるは小鮮を烹るがごとし』という言葉がある。「大きな国を治めるためには、小魚を煮るように細心の注意を払わなければならない。謙虚に静かに政治を行うべきであり、無理をしてはならない」という意味である。
 逆に、大国を治めるのに無理をした結果、どうなるかの例については、近代世界史に枚挙に暇が無い。革命や改革と称して反対派を「粛清」することを正当化してよいものか、その結果がことごとく、独裁者の登場と悲惨な末路(ナポレオン、ヒトラー、スターリン、毛沢東、ポルポト・・・・)に終わっている近代の世界史を参考に、今一度考え直すべきだ。

 昭和天皇の時代には持っていた、「独裁に対する皇室の抑止機能」も既に失われ、今の日本には「独裁」に対しての無防備さのみが目立ち、古代ローマが「共和制から帝政」に変わっていった過程を髣髴とさせる。民衆は快楽にふけり、皇帝にパン(生活・福祉)とサーカス(刺激的な娯楽・生贄)を求め、義務を放棄した結果が「帝政」と「国家財政の破綻」、そしてゲルマン人の侵入とローマの滅亡なのだ。トインビーが言った「自己決定力」を失った民族として、まさにローマは滅んだのだ。

 今回の総選挙で、無党派の「何かわからないが、小泉さんに任せた」という有権者が多かった。とんでもない勘違いだ。民主主義とは、有権者が責任者なのであり、政治家に任せるのではなく、「政治家を監視」しなければいけないのだ。すなわち、有権者が理性的判断と自己決定力を保持しなければならない。ここが理解できない圧倒的多数がワンフレーズと生贄の血祭りに興奮したというのが真相だろう。
 小泉首相のやり方である、支持率が下がってくると政敵をあぶり出し、リンチにかけて殺していく手法(粛正)に熱狂していては、まさに、20世紀初頭のドイツ人や古代ローマ人を笑えない。
 小泉首相のやっていることは「改革」などではなく、森派、財務省、アメリカの3者の利益のため、反対勢力(橋本派、亀井派とその利権としての道路族や郵政族)を駆逐(粛正)しているだけだ。
 ただの利権をめぐる自民党内部抗争を、「改革」と呼んでいるだということを理解する必要がある。その証拠に、大蔵族たる小泉首相は、政府系金融機関や財務省の改革は一切口にしない。むしろ、橋本内閣のときに金融庁を分離された財務省は金融庁の吸収を狙っており、それが達成されるかもしれない。さらに、郵便局職員をまるで悪者であるかのように仕立てあげ、真の悪である財務省所管の財政投融資で財政を破綻させた「財務(旧大蔵)省の責任」を全く追及しない問題のすりかえである。

 日本人の知的水準の低下の傾向は甚だしいが、今一度冷静に考えてもらいたい。日本人にはそれができると信じる。 以上
 (江田島孔明、Vol.68完)

以上
2007/06/03(日) 17:24 | URL | 孔明 #-[ 編集]
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  支離滅裂というのは、こういうことを言うのでしょう。『デスノート』は違法・・・中国当局、規制を本格化http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=0526&f=national_0526_001.shtml--------以下引用--------  日本の人気コミック「デスノート」
2007/05/26(土) 12:44:51 | 日々是勉強
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