独立独歩。私は私。誰かに頼るつもりナッシング。それで良し。
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ハンニバルについていろいろと考えていましたが、面白い彼の総括ができました。
私はハンニバルと言うのを「戦略的に封じ込めるべき相手」と設定する事で、様々な解を求める助けになると気が付いたのです。

ハンニバルの定義
・ハンニバルは戦術的に相手にするのは危険な相手である。
・ハンニバルは明白な利得を求めて行動する相手である。
・ハンニバルを仕留めるには戦略的な行動を必要とする。
・ハンニバルを無力化できる戦略的要素は何か?それが解答。

この様な相手と設定します。
実にいろいろな解が出て来るのです。

ハンニバルが中国で、ローマが日本である場合。
ハンニバルがアメリカで、ローマが中国である場合。
ハンニバルが日本で、ローマがアメリカである場合。

今後の問答のアーキタイプになる可能性もあります。
それは今後の課題として、今回は軍人の能力以外の資質。
それを考えて見ます。

ハンニバル・バルカの人格考察、そしてハンニバル・バルカを称える者達の一般的特徴を論じて見ます。

(5月26日21時書き終わりました)
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さて、ハンニバルと言う人ですが、生い立ちからして少し可哀想な人です。

ハンニバル 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

>少年期
>第一次ポエニ戦争でシチリアをローマに奪われると、父ハミルカルは当時未開であったイベリア半島の植民地化政策に乗り出す。
>そして「カルタゴ・ノヴァ」を建設、イベリア人諸部族をまとめて軍隊を養成した。

ここですが、バルカ一族は「カルタゴの非主流派」なんです。
捨て駒として田舎に放り出して良い、その程度の家系と見られていました。

>ティトゥス・リウィウスによると、ハンニバルが父に同行を願い出た際に父はハンニバルをバアル神の神殿に連れて行き、息子に一生ローマを敵とする事を誓うよう言ったと言う。
>そしてハミルカルの死後、ハミルカルの娘婿であり、ハンニバルにとっては義理の兄にあたるハスドルバルのもとで少年期を過ごす。

これには余談があります。
ハンニバルの父ハミルカルは、イベリア半島でも、ローマ軍と何度も事を構えて、こちらでは連続で敗退していました。
かなり馬鹿にされていたようです。

何故そんな事になったのか?
ハミルカルは第一次ポエニ戦争で、ローマに対して善戦した将軍だったそうです。
他のカルタゴの将軍はもう・・・口にできない程の駄目っぷりだったみたいです。
そんなハミルカルは志願して、お国のためにイベリアの開拓を始めるんです。
もうカルタゴ本国は大賛成。蹴り出すチャンスだからです。

その後のハミルカルは、イベリアでは連続で負けていたらしいです。
(正規軍すら使わせて貰えないんでは、訓練の鬼、規律の鬼の様なローマ軍に勝てる訳ないですね。訓練は片手間で、イベリアのカルタゴ軍はほぼ屯田が主たる任務だったみたいですし。)

ハンニバル自身も少年期から従軍しており、父の用兵を何度も眼にしていますが、その最中にかなり失意を刻み込まれたのだと思います。

そんな彼が傾倒したのは、伝説の英雄であり征服王アレクサンダーです。
ハンニバルはスペインに多い野生馬を狩り、植民者の子弟を騎兵に育てて行きます。
父が何度も何度も無駄に消耗してしまった軍勢を建て直し、遂に5万に近い兵団を育成するのです。

>ハンニバル戦争

>ハンニバルの行路
>紀元前221年にハスドルバルが暗殺されるとハンニバルは軍隊に司令官として指名され、カルタゴから承認を受ける。

父に続いて庇護者であったハスドルバル(弟と同名です)も暗殺されます。
ハンニバルの父であるハミルカルを贔屓にしていた人は、これで大半が失われたのだと思います。
少なくとも、力を持った人はもう居なかったでしょう。

ハンニバルは全ての後ろ盾を失いましたが、完全な行動の自由も得ました。
凄まじい勉学と、人知を超えた天才が合致した、そんな人類史上最強の戦術家がフリーハンドを得たのです。

深刻な鬱屈と、信じられない才能の混沌の結合した怪物が、その戒めである鎖を自ら解いたのです。

>そしてイベリア半島の指揮を取り、エブロ川南方の制圧に着手した。>当時カルタゴはローマとエブロ川を境界に相互不可侵条約を結んでいたが、ハンニバルの力を恐れたローマはエブロ川南方にある都市ザグントゥムと同盟関係を結び彼の侵出を阻止しようとする。
>しかし彼はザグントゥムを包囲攻撃、8ヶ月後に陥落させる。
>これにローマはカルタゴ政府にハンニバルの行動を条約違反とし彼に対しての懲罰を要求、しかしカルタゴ政府はハンニバルの絶対的な人気を前にして、彼に対して何も手を打たなかった。

ここが実は後々に凄まじい問題になって来るんです。
全ての破局の始まりです。

ザグントゥムは、言ってみればローマの領域に入るか入らないかの小都市でした。
ローマにしてみれば、ザグントゥムとの同盟は「カルタゴよ危険な意思を持つな。ポエニ戦争は終わった。今は戦いをローマは望まない」と言う意思表示でもあったのでしょう。まあ、比較的平和なメッセージも軍事と抱き合わせなのが当時の外交です。(現在もですけど、当時のメッセージは更に脂っこいものだったでしょう。)

それをハンニバルは無視しました。
自分から手を出してみせて、吹けば飛ぶような小都市に攻撃を掛けたのです。実に8ヶ月の長期を要しました。

後日、ローマ攻略に二の足を踏んだハンニバルですが、半神とも言える戦術能力の持ち主であるハンニバルですが、彼は実は城攻めが何故か苦手であった可能性があります。
逆に言うと、篭城したローマ軍はハンニバルあたりでもどうにもならない相手だったのかも知れません。(須らく良く訓練されていて、獰猛で、白兵戦と遠距離武器の両方に熟達している相手ですから。)

カルタゴは共和制(ちょっと腐敗した)であり、法治国家(ギリシアと同じで弁舌で簡単に曲げられてしまう)でしたが、この時は直接共和制の欠点がもろに出ました。ハンニバルは許されたのです。国内的には。

それはもちろん外交上の問題として残留します。
この時点で何人の人間がハンニバルに不信感を抱いたでしょうか?

さて続きです。

>そして紀元前218年に彼は5万の兵と37頭の象を連れ、途中で遭遇するガリア人を懐柔あるいは服従させつつピレネー山脈を越える。
>そして制圧した彼等を配下に加えつつ西進、ローマが彼の進路に気付くまでにはすでにローヌ川付近にまで近付いていた。
>ローマ軍に発見されるも彼等の目から姿をくらましアルプス山脈を越えた。
>この時のルートは詳しくは分かってはおらず、現在でも歴史家の間で意見が異なっている。
>そしてイタリアへ進軍し、ローマの元老院を驚愕させる。
>第二次ポエニ戦争(別名、ハンニバル戦争 紀元前218年~紀元前201年)の始まりであった。

さて、WIKIの編集者が意図したのかどうかはわかりませんが・・・。
ハンニバルのアルプス越えですが、5万の兵士が出撃しました。
さて、何人がイタリアに着けたと思いますか?
その半数の2万5千人です。

良いですか?
村松将軍が褒め称えた戦略的運動ですが、そもそも敵と出会う前に、敵地に侵入する間に半数が死んでいるんです。

敵が殺したか、自分が殺したかの差はあっても、カルタゴ軍が半数に減っているのは確かです。
「その間ローマ軍は一兵も死んでいません。死んだのはカルタゴ軍だけです。カルタゴ軍は半数になっています。これのどこが戦略的なんでしょうか?」

何故こんな事になったのか?
・カルタゴ軍の侵攻ルートをローマ軍に漏らさない為
奇襲と言う要件を捨てる訳には行きません。
大事の前の小事と言う事でしょうが、途中の部族の中には徹底的に根絶されたものも多数あったと思われます。
こんな事をしていたからこそ、戦後冷酷と言う評判がハンニバルに付きまとったのだと思います。

・険しい道故の事故
そりゃそうでしょう。冬の乗鞍岳でも、5万人でハイキングしたら何人死ぬかって事です。
鎧兜に剣と盾に鍋と釜を持ってハイキング、もう楽しくて仕方なかったでしょう。
そしてそのハイキングコースは道なき道、崖伝いも方々にあると言う、限りなくスリリングなコースでした。

・補給が困難であった為、適当な規模の集落を潰して根こそぎ略奪した為
補給計画にそもそも無理があります。よって、適当な集落は襲われて略奪されていたと思います。
過酷な行軍の上に、ハンニバルの行軍計画は揉め事と何時も二人連れだったと言う事でしょう。

そんなこんなで終わってみたら軍勢は半減していました。

>トレビアの戦い
>ローマではハンニバルの攻撃は予測できていたが、まさかアルプス山脈から侵攻するとは思ってはおらず、イベリア半島での戦闘準備を行っていた。
>執政官のプブリウス・コルネリウス・スキピオは直ちにハンニバルの動きを阻止すべくローマ軍を出動させる。
>しかしティキヌスの戦いでハンニバルに撃破され、スキピオ本人も負傷する。
>ローマ軍の敗北を見るや、周辺のガリア人部族はハンニバルと結託、続いてトレビアの戦いでもう一人の執政官ティトゥス・センプロニウス・ロングスを敗る。

ここですが、重要なポイントです。

松村将軍が、ハンニバルの戦略と呼んだ部分がここなのでしょう。
周辺のガリア部族ですが、ローマの統治方法は分断統治でした。

・ローマの言う事を最初から良く聞いた部族は「譜代」
・ローマの言う事を聞かず、反抗した部族は「外様」
・ローマにとことん逆らった部族は「譜代とローマで山分け」

こんな感じで分断していました。
ハンニバルになついて来た部族は「外様」で、「譜代」については逆らってきたら「外様とカルタゴで財物と奴隷を山分け」としました。

今までの外様の鬱屈は大噴火。略奪し放題、殺し放題、下克上のシンボルであり、譜代ガリア部族をぶちのめす棍棒としてのカルタゴ軍が光臨した訳です。

その後の食料、武器等の調達、加えてガリア人傭兵の供給先ができました。
けど・・・これって戦略なんですか?本当に?

これってね、単に「ガリア部族の主力軍としてカルタゴ軍と指揮官ハンニバルが就任した」だけであって、「ガリアの揉め事(ローマ及び親ローマガリア部族相手)をカルタゴ軍が全面的にバックアップした」と言う事でしかないんですよね。

もちろん、ハンニバルはガリア部族の手綱をしっかり握ってたのでしょうけど、見方を変えれば「カルタゴが反ローマガリア部族の方針、あるいは欲求にどっぷり飲み込まれた」と見えますし、現にハンニバルの軍勢はガリア部族の援助がなければ二進も三進も行かないんです。

これは主客が転倒しているとさえ言えます。
補給と言う死活的要件をカルタゴ軍はコントロールできないんです。

これが本当に戦略なんでしょうか?
ある意味自暴自棄にしか私には見えません。多分、カルタゴ本国にもそう見えたと思います。

で、その前のトレビアの戦いですが、ハンニバルに取っては段取りをきちんとして、戦いの前に危機感を煽る演説を一席ぶてば、後は兵隊は全力で戦ってくれたと思います。

いやはや、背水の陣どころじゃないですよね。
戻るんだとしたらもう一度アルプス超えです。
もう二度と御免だったでしょうね。

士気云々ではなくて、殺気はボルテージMAX、ゲージ振り切って超必殺技でもコマンド一つで即時発動できたんじゃないでしょうか?
少なくとも、カルタゴ軍の兵士に取っては、ローマ軍なんか怖いとも何とも思ってなかったでしょう。

そして順当に勝ちました。ガリア人も懐いて来ます。
ようやくカルタゴ軍は人心地ついたと思います。
その後は前述の通り。ハンニバルの方針に対して、不安に思った者は一人二人では無かったと思います。

思い切りが良く、決断力があるのはわかります。けど、ここまで他の民族、しかも統制の取りにくい不安定な精神で有名な部族と一心同体になってしまうのはね・・・如何なものかと。

>トラシメヌス湖畔の戦い
>この戦いによって北イタリアの勢力基盤を築きあげると、ハンニバルはさらに勢力を拡大すべく紀元前217年の春に南下を進め、エトルリアに侵入する。
>一方ローマではハンニバルの侵攻に対して新たな執政官セルウィリウスとフラウィウスが再び彼の進路を阻もうとするが、トラシメヌス湖畔の戦いで敗北、執政官セルウィリウスは戦死した。

この時点あたりから面白い現象が生じます。(まさにハンニバルの意図していた現象だと思われます。)
北イタリアに勢力基盤を構築したハンニバルですが、その際にローマ軍は軍団の配置を頻繁に変更しようとします。
明らかに意表を付かれたせいか、ローマ軍はひたすらにハンニバルの進路をふさごうとします。

ハンニバルはそれを全て逆用します。
彼は殊更に侵攻を急がず、必ず敵に取っての難所(狭い場所で街道が通っており、森林などの兵を伏せる事ができる場所、しかも少し小高い地)に陣を取り、何回も待ち伏せでローマ軍を大破します。

ローマ軍は迎撃したつもりが迎撃されているのです。毎回。

>ハンニバルはここで部下からローマに直進するよう進言されるが、攻城機と十分な兵糧がない事を理由に退ける。
>それに対して部下は「あなたは勝利を得る事ができるが、それを活用する事は知らない」と言ったと言う。

面白いサイトを見つけました。
特集・ハンニバル戦争検証その2

学者「それに、ハンニバルにはもう一つ泣き所がありました。」
生徒「泣き所?」
学者「攻城戦が苦手なのです。平原における騎兵の機動力を活かした会戦は得意でしたが、攻城戦に必要な攻城兵器をハンニバルは持っていなかったのです。実際小都市ザグントゥムを攻略するのに8ヶ月、スポレチウムの攻城に失敗しています。元々カルタゴやガリアの傭兵は、攻城戦が苦手ですしね。」
生徒「と、いう事は・・・」
学者「全長8キロの城壁、14の城門を持つ地中海きっての要塞都市ローマ、そして中には諦める事を知らないローマ人。ローマを攻め落とすまでカルタゴの国力が続くか、ローマ人の不屈の精神が勝つか。故に50%の勝率なのです。」

上記の判定は、もしカルタゴ軍が増援を行い、10万の兵が揃った場合の事です。
ここには書かれていませんが、更にローマには地形的に困った要因があります。
ローマは丘の上に構築された都市なんです。つまりローマ市の軍勢はそもそもからして敵を見下ろして戦っているのです。
高地に軍勢を置く事の優位は・・・水さえキチンとしていれば、見事なほどの優位です。(相手の動きを極察知し易いので)
豊富な武器と見事な規律、そして裾野の広い丘を囲む立派な城壁、市内を流れる水量たっぷりの河川、ローマ水道、衛生的な下水道、至近距離にある港町は出城としても有益です。備蓄食料もたっぷり。

ハンニバルは身の程を自分の得意分野では知っていました。
ハンニバルの本領は野戦で勝つと言う事です。
その為には、苦手で条件も揃っていない状態での城攻戦など回避するが吉と割り切っていた節があります。
自分の本領発揮に害となる城攻での消耗など、ハンニバルに取っては論外だったでしょう。

>ローマの同盟都市が離反するように促すためにハンニバルは南イタリアへ向かった。

>ここに至ってローマは非常事態宣言を発令し、ファビウス・マクシムスを独裁官に任命する。
>ファビウスはハンニバルと対峙するも戦わない戦術を展開、その後もハンニバルはアプーリア(現在のプーリア)を荒し回りカンパニアへ進軍、ファビウスはハンニバルに接近するも彼が戦いの火蓋を切ろうとすると退くことを繰り返す。
>この戦法にローマ人の間でも不平不満が続出するが、後にファビウスの戦術はハンニバルの行動を徐々に狭めていく事になる。

と書いてありますが、慎重居士のファビウスは凄く評判が悪かったのです。
ハンニバルは一計を案じます。ファビウス以外の敵に戦功を少しだけ立てさせるのです。

いつの時代でも、慎重な方と派手な方では、派手な方が一般に勇敢で優秀に見えます。
「真勇は怯惰に似たり」そう言う境地を理解する者は本当にできた人間です。
そして、人間の大半はそんなにできていない人間なのです。
破局が始まります、双方にとって違う形で。

>カンナエの戦い
>216年になって執政官にガイウス・テレンティウス・ウァロとルキウス・アエミリウス・パウルスが当選。
>その中でもファビウスの戦術に不満を持つウァッロはハンニバルに対して果敢に立ち向かっていく。

後世の目から見れば、ローマが完璧に釣られています。
資質的にローマの軍人は基本的にとても勇敢です。(アメリカの軍人なんか目じゃないです。)
それを見事に逆手に取られます。

>彼はローマ軍を増強、同盟都市からも兵を募り、ハンニバルのいるアプーリアへ南進。
>しかしハンニバルはウァッロの性急さを逆手に取り、カンナエの戦いで完膚なきまでにローマ軍を叩き潰す。

カンナエは狭隘な土地なのだそうです。
ローマのレギオンは基本的に小さな方陣を魚鱗の様に互い違いに配置して歩兵が前進する隊形です。(それに騎兵が随伴する。)
アレクサンダー当時の馬鹿みたいに長い長槍サリッサを捨て、普通の長さの槍を使い、中小の剣も使い、重い鉄の投槍を投げ付ける重装備の歩兵が整然たる隊形で押し進むのです。
意外にも、レギオンの兵士は数名一組で盾で視界を遮りつつ取り囲んで仕留める、そんな細かい動きも得意にしていた様です。
装甲も適度に強いが重過ぎはしない。
ギリシアやマケドニアのファランクスの様な、潰しの利かない隊形では決してなかった様です。

しかし、集団が方陣やら隊列を組んで移動するとなるといかなる現象が発生するか?
普通に集団心理が働いて、前に前に行く以外の行動が上手く行かないのです。
これは方陣の四つの頂点に中間指揮官を置いても解決されない様です。

方向変換はすぐに混乱に直結します。
しかし、この融通の利かない陣形は逆に前進の凄い圧力にも通じます。
レギオンは主に前進し、圧迫する陣形ですが、それでもギリシアやマケドニアの重装歩兵よりも柔軟に動ける陣形だった様です。

とても大事な事ですが、当時の騎兵と言うのは「まだ鐙(あぶみ)が発明されていない時代の騎兵」です。
後世の騎士等のように、馬の上で比較的安定して戦闘を行う事はできない兵種だったのです。
彼等の役目は主に勢子であり、普通に考えて軍隊の主力になりえませんでした。
なにしろ、後世の騎兵でさえも、歩兵の防御力がなくなった状態でしか使えません。

アレクサンダーは重装歩兵で敵を受け止め、比較的衝撃力の強い武装の騎兵で後背から攻撃する方法を考案しました。
「金槌と金床」と言う戦法です。効果的でした。
マケドニアの重装歩兵は、ギリシアの重装歩兵より長い槍を構え、ほとんど動かずに待ち受けて、その背後から重装備の騎兵が襲う方法はギリシアの各ポリスの軍勢に非常に効果的でした。
ギリシアの各ポリスは凄まじい死者を出したのです。
特にテーベその他の都市の損害は大きく、その後のアレクサンダーの癇癪によって、なんとポリスそのものを破壊されてしまいます。
(これが後の「フィリップ5世に対するギリシアポリスの妥協なき反抗」となって現れて来ます。)

さて、ハンニバルが失意の少年時代からこっち、アレクサンダーを研究し続けていた事は前述しました。

サリッサは威力はあり、ギリシアの遠距離武器を一切持たない歩兵には有効だったが、ローマ軍は違う。
そしてサリッサは持たせて移動させる事も難儀で、しかも持たせたが最後放棄するまで方向変換が一切できない。前進させるのも一苦労となる。
常識的な線で100年以上もの間武装が改良されて来た成果が、ローマでありカルタゴでありの歩兵だから、それで戦う事が一番リスクは少ない。
しかし、その場合、とりわけローマ相手では「金床同士の戦い」となり、「金槌の貧弱な事」は夥しい。

ハンニバルの構想はこんな感じだったのでしょう。
アレクサンダーは前を金床で塞ぎ、後ろから金槌で叩いた、ギリシア相手ではそれで事足りただろう、しかしローマ相手では横も塞ぐ必要がある。
一直線に進むしかないファランクスと違い、レギオンはザマの戦いでも見える様に、作戦次第では横に移動する事さえできる、そうハンニバルは確信していました。

ハンニバルの凄さはその構想力です。

カンナエの戦いに際してのハンニバルの布陣は、ローマから見れば不可解な陣立てだったでしょう。
中央が勇敢だけど消耗の激しい、ガリア人の軽装歩兵部隊だったからです。
この時代の戦闘は敵の陣形を潰した方が勝ちます。
白兵戦主体の戦争であり、機動戦など刺身のツマでしかない時代です。
各指揮官も白兵戦に参加するので、当初の予定が崩れたら全軍が所定の行動しか取れない事もあって、最終的に統制を維持している側が勝ってしまうのです。

中央を突破すれば、敵の背面を主力の歩兵部隊が突ける。
そう言う目論みもあり、ローマ軍は中央部を厚くして突進しました。
先陣のガリア歩兵は脆くも崩れ、その後方のカルタゴ正規軍に向けて後退します。
その後、ガリア軽装歩兵はカルタゴ軍の前を横切って左右に逃れます。

さて、その時に中央のローマ軍は気が付いていませんでしたが、両翼のレギオンはキッチリと受け止められて居たのです。前進していたのは中央部付近だけでした。

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その後、ガリア人軽装歩兵の残党が左右に避退した後、カルタゴ軍中央本隊の左右が少し前進したのです。

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重装歩兵VS重装歩兵。両軍の中央部はガッチリ組み合います。
階段状に配置された各所の金床が敵を受け止めます。
両翼も衝撃を受け止めています。
ガリア敗残兵は敵の横を突ける位置に展開して行きます。
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包囲完成。

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こうなるとレギオンは動きが取れません。そして方向変換もできません。
カルタゴの12個の白い四角は全てが戦っていますが、ローマの24個の黒い四角は正面と戦っているのが8個だけ、その内2個は横からも攻撃されており、早晩戦闘力を失います。特にローマの幾つかの部隊は後ろから騎兵の攻撃を食らい、一方的に近い交換比率で叩かれています。

ほぼ2倍の兵力差をこの体勢ではローマは活かせないのです。
状況はどんどんローマに取って悪化して行きます。

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突破を確信していた中央部は停滞しています。
両翼で正面と側面から攻撃された部隊は消耗して戦力外になります。
ローマの軍勢で正面のみと戦っているユニットは既に6個、2個は三方向から囲まれています。カルタゴ軍は12個全てが全力戦闘、内4ユニットは腹背からの攻撃です。
ローマ軍に取って、更に状況は悪くなります。

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ローマの軍勢で正面のみと戦っているユニットは4個、4個は2方向から囲まれており、側面と背面を攻撃されているものが2つ。カルタゴ軍は12個全てが全力戦闘。

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この時点でほとんどカルタゴ軍の数と同等になり、かつら剥きにされる大根と同じ状況になっています。

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この推移を見るに、中央部の厚みは最後まで余り削られていません。
しかし、両翼部分の横や後ろから狙われた部分が手酷く叩かれ、その都度内側に追い込まれて行く事になります。

ハンニバルの凄さは、金床を幾つも用意して階段状に配置した事です。

主力の重装歩兵を足止めの役と割り切って居るのです。
ローマ軍は主力を中央に置き、敵の中央を突破する事を目指しました。
そこにはわざと弱体の部隊が置かれていたのです。

ハンニバルの陣立ては元来からV字方(鶴翼とも違う様に思える)の陣形に短時間で変形できる様に作られていた様です。
ガリア軽装歩兵は、それらの後ろの陣立てを最後まで隠す役目も持っていたのでしょう。(まあ、カンナエでのローマ軍はそんな小細工無しでもただひたすらに突撃して来たでしょうが・・・。)
その様な陣形では、大きな変化が無い限り各所で消耗が起こり、最終的には中央も崩れて、ローマの目論見の通りに中央あるいはその他で突破されてしまいます。

ハンニバルは「中央部は最後まで遅滞戦闘」「両翼部分から敵軍を解体」「敵を解体した部分は、順次方向変換して隣接した敵を横撃」「敵騎兵を駆逐した騎兵隊は、順次敵最後部を後ろから攻撃」この様な段取りで、敵を包囲して順次解体できると目論んで居たようです。

野戦でのハンニバルは、極端な短期決戦の方法を取る人だったみたいです。
彼が大勝利したほぼ全ての野戦は、長くて一日の間で結果が確定しています。(釣り込む作業には時間を掛けても、仕上げは一日以内に行っています。)
その為に、ハンニバルが決戦を選ぶ場所は狭い場所中心になっています。

ハンニバルと言う人は、最高密度の集中力を持ち合わせていたのでしょうが、それが長続きしない人なのではと思います。
そんな人は攻城戦とかには向いていません。すぐに結果が出ないからです。

そして、彼の戦略(と言えるかどうか)そのものも短期決戦の戦略でした。
ハンニバルはこのカンナエの戦いの後に、ローマに講和を申し出ます。

特集・ハンニバル戦争検証その2

1、第1次ポエニ戦争の賠償金の返還
2、ザグントゥム攻略を不問とする
3、50年間の関係友好

ハンニバルは前のエントリーでも説明しましたが「自分が合理的だから相手も合理的」「自分が強い事を相手は認めてくれる」と考える、とても頭の良い人でした。

しかし、彼の世界観の限界は、どうやら「戦場で全てが決まる」と言う、凡愚の軍人と同等の広さしかなかった様です。
これにはアレクサンダー大王の研究が暗黒面として下敷きになっていると思われます。

何しろ、アレクサンダーは戦場で戦って、全てを手に入れいた人です。
それだけで事足りる、そうハンニバルは想定していた節があります。
アレクサンダー大王の遠征についての書物は、言ってみればヒロイック・ファンタジーです。
ハンニバルは、そのヒロイック・ファンタジーの世界観を継承実践した人でした。
(アレクサンダーが、ギリシアのポリスから100年経っても恨まれ、マケドニアがその後ずっと警戒されている事などは、きっとその本には書かれていなかったのでしょう。)

彼には実際問題、戦って戦場で勝つ事しか念頭に無かったのでしょう。
その事はローマにもキチンと理解できています。

この時点ローマにしてみれば、「ハンニバルの戦い」の総括は以下の様なものでしょう。
1.ハンニバルは、ローマを軍事的に徹底的に追い詰めている
2.この時点でローマが講和に応じれば、現在同盟を結んでいる諸都市がローマの軍事力の後ろ盾を信じなくなる
3.ハンニバルの占領地は、ローマの北の比較的安定していたガリア人領域であり、ここで講和を行えば大きな反ローマ勢力がそこに残留する
4.シラクサの返還は条件に入っていないが、多分シラクサは自力でカルタゴへの帰参を申し出る
5.シラクサが寝返れば、その時点で地中海の覇権も怪しくなる
6.ローマの領域は非常に小さくなり、地政学的にも半島と言う争いの絶えない地帯が、今後急速に不安定化しかねない
7.前回のポエニ戦争は、言ってみれば勢力図の塗り替えと言う通常の国家同士の領土争いだったが、今回のハンニバル戦争は「ローマと言う国家連合体の生存に関わる戦争」に質的変化を遂げている

ローマ首脳部はそう言う風に結論したのだと思います。
前述のブログでも言及していた通り。
・ハンニバルの戦略は「ローマと言う国家の解体」にある

これは戦略的手段としては優れていましたが、講和を求める相手に使って良い手段ではありません。
この時点で講和に応じると言う事は、ハンニバルの戦略的手段を完成させてしまう事になりますし、それが完成すればローマと言う国の「都市連合」、「異民族部族の分断支配」と言う国家の成立根幹を破壊される事を意味するからです。

結論として、この講和を受け入れたならば、ローマは再起不能になります。
ハンニバルの戦略とは、「国家の浮沈を賭けた全面戦争に至る戦略」でもあったのです。
この時点で講和、しかも自分の行った過去を許してくれと言う、そんな利己的な条件まで入った代物をローマが受け入れる訳もありません。
受け入れる事は、今までのローマのガリア部族分断支配等の「負の遺産の支払い」とセットです。

下手をすると同盟都市との連携がもてないまま、孤立した上にガリアその他から集中攻撃を受ける可能性まで出て来ます。
講和は論外だとローマは判定したでしょう。

また、この講和条件で、ハンニバルは足元を見られたと考えても良いのではないでしょうか?
・サグントゥムの攻略については不問にせよ

最早そんな小さな切欠など、その後の重大な経過の推移に比べたら何と言う事もない出来事です。
ここで何故ハンニバルは講和を求めてくるのか?
それをローマ人達は良く良く考えたに違いありません。

このあたりの、講和を模索する戦術的戦略的な戦いと言うのは、前大戦での日本政府の苦闘と相通じるものがあると思います。

悲しい事ですが、日本政府は自分達とカルタゴとを並べて考えてみる歴史認識すらなかったのでしょう。
明治時代の日本人の持っていた、教養と言う強い味方、良い友人がこの時点ではどこかに行ってしまっていた様です。

さて、しかしながらローマの被害は甚大です。
若くて、勇敢で、しっかり訓練を積んだ兵士達が大量に死ぬか捕虜になってしまったからです。
同盟都市の若者達も沢山帰って来ませんでした。

>50,000から70,000人のローマ兵士が戦死ないし捕虜になった。執政官パウルスは戦死、次期執政官に内定していた者2名も戦死、2人のクァエストル、48人のトリブヌス・ミリトゥムも戦死、ローマは一度の戦闘で指導者層の25%を失うという過去に例がないほどの完敗を喫した。
>これ以降ローマはハンニバルに対しては消極的な戦法に徹する事になる。

そんなローマに騎兵を率いて蹴散らされたウァロ執政官が悄然と帰って来ます。

ローマ人はそれを許しました。
その頃には既にローマ人の腹は決まっていたのです。

単なる領土を巡っての戦争ならば、多分ウァロ執政官は批難轟々たる中で詰め腹を切らされて居たでしょう。

しかし、この戦いはそんな政治的な戦いではなく、既に国の存亡、民族の生存を賭けた戦いに変化していたのです。
それならば勝った負けたではなく、生きているか生きていないかだけが問題になって来ます。

また、ウァロは卑怯な戦いの末に逃亡したのではなく、それなりに勇戦し、どうにもならなくなって敗亡したのですから。
もしウァロが怯惰の末に逃亡して居たのならば、それはそれで処罰の対象になったでしょう。
ローマ人は無原則に寛容であったと言う事ではないのです。

また、カンナエの敗戦を研究した結果、カルタゴ軍の強みが騎兵の活用にあった事をローマ人は騎兵の育成が必要だと結論を出していました。
カンナエでの騎兵の敗北は、トレビア以降の騎兵の消耗を補充できていなかったせいです。
ローマの騎兵はエリート階級の独占物であり、武具や馬具は個人で調達したものでした。
その方針が改められ、騎兵を国が育成する方向に向かいます。

ここまでの経緯を見るに、丸っきり、航空機の有力さをアメリカに教えてあげた日本海軍と同じ道筋です。

所詮、戦術的な優位とは、どんなに圧倒的であっても、敵手のこの程度の方向変換で対処が可能だと言う事です。
もちろん、回復力の低い敵手であるならば、敵は立ち直る事ができないでしょう。
しかし、ローマは回復力も大きく、また不撓不屈の敵手でもありました。

開戦時の戦力だけを比較して、その上で戦争に踏み切った日本帝国と、この時点のハンニバルの認識は共通しています。
甘いのです・・・。

>しかしながらハンニバルは戦略上首都ローマに進軍せずにローマ同盟都市の離反を図り、紀元前216年にカプアを、紀元前212年にタレントゥム離反させ、シチリア島のギリシア人都市を反乱させるなど成果を挙げたが、それら極一部を除いて目立った成果を上げられず、以後イタリア半島では一進一退の膠着状態が続く。

講和に失敗したハンニバルは、その後は消極的になります。
動いてはいるのですが、ローマ人が内心では恐れていた更に過激な方法、ローマ攻略などには着手しなかったのです。
シラクサ(シチリア島)は元来からカルタゴ陣営で、前回のポエニ戦争で失われた版図でもありました。

タラントやカプアはローマ陣営を離脱してハンニバルに付きました。
しかし、その後はローマの厳しい目に晒されます。
ローマが回復してくると、まずこう言う離反した都市から攻撃を受ける事になります。

その頃には、ファビウスが提唱した慎重戦略が効果して来ます。
圧倒的なローマの軍勢の再生、そしてハンニバルの手持ちの兵団はどんどん消耗して行くのです。

そしてカプアがローマに狙われますが、それをハンニバルは普通に救援する事もできませんでした。

第52章:ハンニバル、城門にあり!(前編)
第53章:ハンニバル、城門にあり!(後編)
占領地を増やし、同盟を増やすと言う事は、その占領地や同盟相手に対して責任を持つと言う事でもあります。
どうやら、ハンニバルはその事を途中まで理解していなかった様です。

悲壮な決意の下、カプアを守る為にハンニバルはローマを突きます。
そしてそこまででした。

ハンニバル by Woodnote

このハンニバルの小説、本当に面白いですので皆様もどうぞ。

>その中でシラクサのヒエロニモスと同盟、カルタゴ本国に補給を要求するも、カルタゴ政府はこの戦争に対して、はじめは日和見の立場を取り、制海権をローマに握られているせいもあってハンニバルは本国との連携や補給をうまく取ることが出来なかった。
>現在の戦術議論においても、カルタゴからの物資援助があればハンニバルはローマを直接攻撃できたのではないかと指摘されている。

まあ、実際どうでしょうかね?
普通の軍事常識を持ってる人ならば、
・制海権の無い地中海を越えて
・補給線の無い敵の中枢に向けて
・自国の主力を投入して
・遮二無二に国の存亡を賭けて決戦を挑む

なんて事を考えるものなんでしょうか?

軽挙妄動の賭博的作戦と言うべきでしょうね。

ハンニバルはもっと手堅く戦争を始めるべきだったし、その前にカルタゴ本国ともっと意思疎通を行うべきだったでしょう。
言って見れば、サグントゥムを独断で攻め落とした事、その事からカルタゴ本国は彼に対して考えられない程に冷淡になったのですから。

許可が貰えなければそれまでです。

独断による開戦のその後でも、イベリアから軍を出して、カルタゴ本国からの増援をその時点で小規模でも求め、各武将に戦功を立てさせて、本国での名望を確立してからアルプス越えをしても・・・。
遅くなかったと思います。

戦争とは国家の浮沈を賭けて行うものです。
下手するとそれこそ「民族ごと消されてしまう結果を招く」ものですし。

なまじっか、私に取っても、その他の歴史を学ぶ者にとっても、ハンニバルは魅力的な人物ですので、ハンニバルを見誤る人は多いでしょう。

彼は歴史上で最高の戦術家であり、逆境に信じられない位に耐える堅忍不抜の男であり、短期の決戦を稲妻の様に行う魔神の生まれ変わりであり・・・何よりも愛国者であり、彼の信じる神の敬虔な信者でした。

だからこそ、彼をヒロイックファンタジーの題材として消費してはならないと思うのです。私は・・・。

私はハンニバルと言う、比肩すべき人物が最早生まれて来ないだろう、そんな英雄、武将、愛国者を正しく理解したいと思います。

彼の敗北を、凡人である我等は正しく分析しなければなりません。
彼は人間としてのある種の極北であり、その人生、その生涯からも学ぶ所は多くあります。

才能で及ばない我等は、彼を崇拝しつつも・・・その敗北から学ばねばならないのです。

二度と出て来ない、歴史上の奇跡の人物。
その彼の教えてくれる教訓を我等は学ばねばなりません。

彼の憎んだもの、彼の愛したもの、それらも含めて、我等は教訓としなければならない。
しかし、それらは決して彼の戦術や、彼の戦勝に感情移入していては理解できない。

そう私は思っています。

まあ、ここまで私が時間をかけて、滔々と語るハンニバルと言う人物。
その足跡、その残る記録をざっとでも皆様目を通してみてはいかがでしょうか。

カルタゴよ カルタゴよ
 我が愛する祖国よ
 そなたの声が我を呼ぶ
 その輝く翼は
 まさに力尽きんとし
 憎むべき狼どもは
 我が同胞を殺戮する
 いまこそ我は立たん
 遥かアンダルシアより
 そなたの声に応え
 悪魔を駆逐して
 永遠の平和を開かん
 バールの加護のあらんことを

ナチスドイツ海軍、劣勢極まりない彼等が、イギリスに対して通商破壊を行った時、その通商破壊艦艇の終結場所に「アンダルシア」と名付けていた事を知る人は少ない。

ハンニバルとは、とてつもない巨大な敵手と戦う勇敢な者達の心の中に2000年を越えても伝えられる、そんな勇者の名である。

その戦いの記憶は今も多数の人達の心の中に生きている。
そう、私の中にも。

だからこそ、我等はハンニバルと同様の轍を踏んではならない。
戦術ではなく戦略、勝利ではなく生存。

その道を模索して行きたい。

私のハンニバルに対する評価は、人類史上最高であり、空前絶後の戦術家。
そして、ハンニバルの戦略に対する評価はそれ程は高くない。

ローマに対抗する方法は、その解体を目指す事ではない。
それに同化しては負ける。
さて、それでは一体何をもって対抗するのか?

それを今後はもっと深く考えて行きたい。

では、このエントリーはこれで終わります。
書けと言われたら、下手すると本になる位書いてしまいそうだし・・・。
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コメント
この記事へのコメント
おわーw
某研究者様のスレなんすか?これってww

http://society6.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1167520459/

なんか検索で見つけちゃったですよw
このスレだけは私も読みますね。

こう言うのあるならもっと早くに教えて下さいよ。謙遜してちゃ駄目です。
このスレは結構良い感じで個人進行してますね。いや本当に。
2007/05/25(金) 01:19 | URL | 三輪耀山 #X.Av9vec[ 編集]
まあ他者のレスが余りに少ないので
公表する必要も無いと考えただけだし
内容も殆ど自己のブログでULした物だけだが


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%94%E3%82%AA
>紀元前204年、何とかアフリカ侵攻を認めさせたスキピオは「これをローマ軍の正規の作戦として認めない」と言う元老院の冷遇にもめげず軍を編成し、アフリカに侵攻する。そこでそれまで敵対していたヌミディア王マシニッサを味方に引き入れた。

アフリカ侵攻は完全にスキピオの提案かも知れぬし
スキピオがアフリカでヌミディア騎兵を手に入れなければ
ザマでの勝利は有ったのかどうかだが


>本国政府の要望に逆らえなかったハンニバルは兵をまとめてイタリアを退去し、アフリカへと帰還する。

仮にイタリアに残ってもヌミディア騎兵の前に
敗れていたと言う事は無いのかどうかだが
(ハンニバルもヌミディアの本拠地を攻撃されたら
 ヌミディア騎兵が寝返るとは
 考えなかったのかだろうし
 アフリカに戻って
 ヌミディア騎兵が味方である状態で
 スキピオと戦ったら勝てたかも知れぬし
 スキピオを捕らえるか戦死・失脚させれば
 ローマは敗れて居たと言う事は無いのかだが
 スキピオが決戦を避けて上手く逃げたと言う可能性も
 有る訳だろうし
 カルタゴ本国でクーデターでも起こして
 大兵力でローマを強襲すると言う様な
 方向しか無かったかも知れぬが)


その上で焦土戦術を徹底して篭城するローマを
兵糧の補給も出来無い様な状態に
追い込むと言う様な方向も
有った訳だろうし
クーデターを起こせばハンニバルは本国から補給は
受けられたかも知れぬが
2007/05/25(金) 19:44 | URL | 某研究者 #n08XGfOg[ 編集]
ローマ市は歴史上何度も陥落しており難攻不落ではないですよ。
追加でいえば将軍の指摘どおり水とローマ街道、特に橋梁であってると思いますが。

(古代ローマの主な落城の記録)
①BC.390 
ケルト人の襲来によりほとんど抵抗できずに城壁を破られ、7ヶ月もの間占領
されてしまう。最終的には大量の金塊を払って和睦・捕虜を解放してもらう。
②AD.410 
西ゴート族の侵入による 『ローマの劫掠』 により3日に渡って荒らされる。
③AD.537 
東ゴート族の包囲攻撃で水道その他が破壊され、伝染病が発生し人口が激減し
開城に至る。

②上水道の破壊
紀元前215年時点で完成しているローマの上水道はわずか2本です。
建設年代・規模・破壊箇所は以下の通りです。
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-category-9.html
2007/05/26(土) 20:19 | URL | zeonic #EBUSheBA[ 編集]
>zeonic
あのね、羊飼いやってた時代に城壁あったの?兵力あったの?

それと、ゴート帝国時代の落城は、あの時代は周辺の自然が破壊されていて、ローマと言う都市自体がボロボロになっていたでしょ。

この場合はカルタゴと戦争している時のローマの事を言ってるの。

もうどうでも良いけどね・・・。
情けないやら・・・。

ハンニバルは過去のローマと戦っていたのでも、未来のローマと戦ってたのでもないよ。
この時代のローマはローマの最盛期に向けて駆け上がっている最中だからね。

他の時代との比較はできないね。

>某研究者様
何と言うか、スキピオって境遇が悲惨なんですよね。
特にハンニバルを打ち破って後に、どんどん悲惨になっていくんですよね。

彼についての記述とかに触れる機会があまりなかったもので、良く知らないんですが、評議会でも冷遇されていたんでしょうね。

まあ、他のIFについてはどうかわからないです。
全て可能性、蓋然性ですね。
2007/05/26(土) 21:20 | URL | 三輪耀山 #X.Av9vec[ 編集]
兎も角ヌミディア本国をスキピオに攻撃されれば
どう言う事態を招くか位
ハンニバルも分からなかったのかどうかだが


>何と言うか、スキピオって境遇が悲惨なんですよね。
特にハンニバルを打ち破って後に、どんどん悲惨になっていくんですよね。

クーデターを起こす能力は有ったかも知れぬが
野心が無かったと言う
事なのだろうか


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9
上のベリサリウスの様に
戦勝後に解任されては国が危機に陥る毎に呼び戻されると言う様な
将軍も良く居るだろうが
政治的野心が無かったのが
悲劇と言う事だろうか


ザマで象をローマ軍は
隙間を空けた隊形で回避した等と言うが
象と言うのは単純な直進しか
本当に出来無いのかだろうし
サーカスやタイ等で働いている象を見ると
可也柔軟に動いている様に見えるし
本当は象に可也やられていたが
(まあ全く隙間を空けないよりはましと言う事かも知れぬが)
ローマ軍も騎兵が戻ったから
何とか勝ったと言う事は
無いのかどうかだが
2007/05/26(土) 21:25 | URL | 某研究者 #n08XGfOg[ 編集]
>某研究者様
ええ、ハンニバルは愛国者だったんですね。
我々が考えている様な一筋縄の愛国者ではなくて、本当に深刻な危機に立ち向かう、そんな愛国者だったと思うのです。

彼は自分の人生の内にローマを解体する事だけを願っていた様です。
まあ、正直に言って、我々ごときが彼をどうこう批判する資格があるのかどうかも判らない程に国を愛していたのだと思います。

けど、結果は悲惨でしたね。
いずれ避けがたい事だったのかも知れませんが、彼の行動には修正の余地はあったと思います。

ちなみに、象の正面に立って、それがこちらに駆けて来ると言うのはね。
私は嫌ですね・・・。

鎧兜に身を固めて剣を持ったとしても、あんなどでかい生物とは戦いたくないです。
キリンあたりでも、剣で殺す前に足で蹴られたり、どでかい図体にはさまれたりと考えると、二の足を踏みます。

ちなみに、カルタゴの信仰についてのページです。
地図関係で有名なメルカルトって言う名前は、カルタゴの神様の名前なんですよね。

http://www.asahi-net.or.jp/~ZM8H-TKD/crt/crt05.htm
2007/05/26(土) 21:52 | URL | 三輪耀山 #X.Av9vec[ 編集]
かなり正確に考察している歴史サイトのハンニバル特集
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-category-9.html

>紀元前215年時点で完成しているローマの上水道はわずか2本です。
>建設年代・規模・破壊箇所は以下の通りです。
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-category-9.html

上記の歴史サイトぐらい読んでから反論するのがマナー。

>あのね、羊飼いやってた時代に城壁あったの?兵力あったの?
>この場合はカルタゴと戦争している時のローマの事を言ってるの。

状況を整理すると補給戦について貴方は基本的に勉強不足です。
カルタゴにはイタリア半島で戦うしか方法がなかったのです。

連山でいえばイタリアが中東、松村劭がカルタゴ本土、原亨がスペイン防衛、江田島孔明が中央突出部、永井俊哉が後方重装陣地だった。
しかし江田島孔明が後退命令を無視して敵陣に突撃していく。結果として予備の峯山政宏が投入され中央突出部の穴をふさぎつつ後退する。
ヌミディア(アラブ)とガリア(欧州)とアメリカ(スペイン)
騎兵が後方から両翼包囲体制を取っている。ドル崩壊に備え。
たぶん、こんな感じでしょう。マケドニアがロシアでシシリアはチャベス辺りかな。
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/alacarte/logi.html

歴史に残る作戦のようですから次第に西欧経由で情報が入るでしょう。
2007/05/26(土) 22:19 | URL | 草野 #oIud7dF2[ 編集]
>草野
はぁ?そうですか、マナーですか。
貴方の決めたマナーはそうなんでしょうね。
だから貴方だけで守って下さい。

そのサイトは読みません。
ハンニバルがイタリアで戦うしかなかったと言うのも認めません。

他の方法は沢山ありました。
他の方法では、確かにハンニバルの歴史における戦功は挙げられなかったとは思いますがね。

ちなみに、電波系のレスは飛ばさないで下さい。
このサイトでは現実離れした電波は迷惑です。
どこぞの大きい掲示板に言って、そこでレスされるがよろしいでしょう。

しかし、アメリカ産狂牛戦闘マシーンと言い、この草野と言い、危ない奴は軒並み大阪だな。
嫌になって来るね・・・。
2007/05/26(土) 22:30 | URL | 三輪耀山 #X.Av9vec[ 編集]
「江田島孔明が後退命令を無視して敵陣に突撃」

→アホかといいたい。私があのサイトを抜けたのは、ひとえに主催者の独りよがりに嫌気がさしたからだ。

直接的にはイラン戦争の有無について、彼は開戦不可避の立場だ。それがどうだ?いまだに始まっていない・・・いい加減な憶測でいい加減な事を書くな!!!
2007/05/27(日) 17:48 | URL | 孔明 #-[ 編集]
象って素敵
>ちなみに、象の正面に立って、それがこちらに駆けて来ると言うのはね。
私は嫌ですね・・・。

御意。
昔、インドで象に乗りましたが、快適そのものでした。
四駆よりも速く、山の上の城に駆け登るんです。
車と違って、不整地でも背中の上下が少なく(前後には揺れますが)、なんとも気分の良い体験でした。
象使いが首にまたがって、耳の付け根のあたりを鳶口みたいな道具でコツコツ叩くと、この巨大な動物を意のままにあやつれるんですね。

ハンニバルの時の悲惨な象使いの少年の逸話も、もっともな話だとおもいましたが。
インドでは象に踏み潰させる刑罰もあったようで、エジプトでワニに食わせるって脅す話と同じ意識構造なんでしょうか。
巨体は怖いですから。
2007/05/28(月) 10:09 | URL | One of Three #-[ 編集]
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2008/01/05(土) 08:24:59 | かんなのblog
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